馬鹿と鋏は
「シズちゃん俺と香港デートしない?」
「え、死んでくれねぇ?」
わあ疑問文を疑問文で返されてしまった!
しかもだいぶん辛辣な疑問である。しかしここでくじけないのが折原臨也が折原臨也たるゆえんである。彼も伊達に平和島静雄歴9年を語っているわけではないので、こんなちょっと自転車のタイヤの空気が抜かれた程度のショック具合には負けないようになった。この9年は、臨也の精神面に硬化ガラスのような強さと耐久性をもたらすには十分な時間であった。しかし彼に人間的な著しい成長をもたらすにはまだ足りなかった。どれだけたっても、たぶん足りない。
「そんな冷たいこと言わないでさぁ。ほら、航空券も2枚あるんだけど」
「なんで俺がてめぇと香港行かなきゃいけねぇんだ。お前ひとりで行ってこい。そしてヴィクトリア湾に沈んでこい。それがいい」
静雄は煙草をふかしながらうんうん頷く。航空券を2枚ひらつかせている臨也は笑顔のままちょっといらっとする。あ、やっぱむかつくこのおとこ。
とりあえず素直にこの男が、香港?行く行く!などとなる希望的数値は0に近いことはハナからわかっていた。わかっていたけど、0に近いのであって0ではないそのわずかな奇跡的数値、それこそ惑星の衝突で大気と水がうまれるほどのそれに賭けてみたけれど、大気と水どころが衝突すらおこらなかったので断念する。もはや避けられてさえいる。
だが平和島静雄歴9年の彼にとってこれは予想の範囲内であったので次の手にでることにした。今までの自分の戦歴を振り返りこの男が首を縦に振る口上。それは臨也にとってあんまり快くない方法であるけれど、背に腹は変えられないので仕方ない。
「幽くん、たしか今海外ロケだよねぇ?」
もうこのばかと一緒の空気を吸いたくなかった静雄は、立ち去ろうと踏み出した足をぴたりと止めた。臨也は口の端をあげる。やっぱりシズちゃんには幽くんなのか。ちょっとくやしいけど。
静雄がさっきまでひっこめていた殺気を背後に垂れ流しはじめた。瞳孔も開いている。大変人相が悪い。これなのになんで幼女にモテるのかが臨也はさっぱりわからなかった。どう考えてもシズちゃんより俺のが子供受けする顔してるのにさぁ。何事も問題なのは中身である。
人相は悪いが幼女にはモテる静雄は、腹の底から低い声をだした。
「・・・だからなんだってんだ、あぁ?」
「確か行き先は香港だよねぇ。実は今彼が泊まってるホテル、ちょぉっとやばいんだ」
「なんでてめぇが幽の宿泊先知ってんだ、あぁ?!」
つっこみの観点がちょっとずれている。しかしかまわず静雄は思わず臨也の胸倉をつかんでしまった。今ここで彼がまず追求すべきことは「ちょぉっとやばい」ことの内容であるのだが。
「ま、それは俺が素敵で無敵な情報屋だからってことで」
「おまえ今すぐ東京湾に沈めるぞ」
「ままま、落ち着いてよシズちゃん。幽くんのこと、心配じゃないの?」
そこで静雄ははじめて、幽が貞操ではなく、下手すれば人命的にピンチであることに気付いてはっとする。臨也の「ちょぉっとやばい」ことは、間違いなくちょっとではなくて大抵命の有無がかかわってくることを彼は彼で理解していた。あんまり認めたくないがなんだかんだで彼も折原臨也歴9年なのである。静雄は静かに臨也の胸倉をつかんでいた手を離した。この9年で彼はそれなりの自制心を育んでいたのである。誰かと違って人間的にもきちんと成長している。
その誰かは自分のよれたコートを手で丁寧に撫でて、直した。
「・・・やばいことってなんだ」
「そこにね、上海マフィアの幹部が今泊まっているんだけどね、その理由が自分たちをだまくらかした政治家がどうも香港にいるらしい。その後始末のためなんだけど・・・その政治家っていうのが日本の、まあ上層の人間でさ。幽くんが所属してる事務所にもけっこうな援助金だしてたらしいんだよね。関係があるっちゃあるから、なんらかの因縁つけて幽くんを襲う可能性も、なきしにもあらずってかんじでさぁ、それで」
静雄はそこまでおとなしく聞くと、いけしゃあしゃあと語り続ける臨也の手から航空券を2枚むしりとった。臨也はにんまりする。
やっぱりこの男は単純で馬鹿で正直だ。幽の存在をちらつかせるだけで急に思い通りに動くことは、そりゃあすこしは悔しいけれど、まあわかっていたことである。これでいいのだ。こんな少し考えればおかしいとわかる嘘にさえ気付かない静雄がおかしくてしかたなかった。
そう、嘘である。上海マフィアがどうとか政治家がどうとか、いくら素敵で無敵な情報屋といえど新宿に住む一介の若者がこんなハイクラスなことを知っているわけがない。まして知っていたところで彼はもっと”おもしろいこと”のために使うだろう、折原臨也とはそういう人間であるからだ。
ちなみに幽が海外ロケに行っているのは事実である。ただ行き先はグランドキャニオンであるが。
臨也はうきうきとして旅行のプランを脳内で練りながら静雄に話しかける。うーんドルフィンクルーズも捨てがたいなあ。
「ねえおれイルカも見たいんだよねー、ほらピンクイルカ!ぜったいかわいいよね」
「おいなにぐずぐずしてるノミ蟲。とっとと行くぞ」
「うん、ねぇシズちゃんイルカすき?あ、
てかイルカって食べれるんだっけ?香港はグルメもいいよねー」
「イルカでもトルカでもなんでも食ってろ。おいタクシー!」
「とりあえずマンゴープリン食べたいな俺。そんで夜はナイトクルーズね、あ、最高級ホテル予約してるからさ!多分そっから見る夜景もすごいだろうね、ま、夜は俺もすごいけどさぁ」
「成田までお願いします」
タクシーは排気ガスを噴出して走り去る。それから1週間、静雄の姿を池袋で見た者は、いない。