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上へ、上へ

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 上へ、上へと目指していた。生き方は地下へ奥深く潜って行くのに、余りに矛盾。しかるに、折原は上を、高みを目指していた。
 マンションの屋上に不法侵入して、地面にごろり、白けた空を仰いだ。夜とはいえ二十四時間明るい街のこと、星も見えず白々。先ほどまで自分を追っていた平和島は今いずこ? 携帯を取り出せば大抵の情報は分かるけれど、面倒がって今はしない。四十階建てのマンション、風は冷たく、強い。整えてある髪形が崩れてしまう。
 跳ぶ様に起き上がって、フェンスに近寄る、眼下に広がるネオンの海。折原が暮らすのはそのまた奥深く、海を潜って海底の裏側、いつだって窒息しそうに肺が痛い。とはいえ自分の仕事を考えれば澄んだ空気なんて望む方が間違っている。慣れてしまえば問題ない。そして、大丈夫、と強がりを自分に言い聞かす、欺瞞に折原は疲れていた。ごぼごぼと息をする度に汚い空気に犯される、だから上へ上へと、たとえステップ一段だって良い、上へ、上へ。こんな高所に設置するには頼りないフェンスに足を掛け、更に空へ近く、身体を伸ばした時である。
 どんがらがっしゃん、ドアが勢いよく壊れて、平和島が現れた。
「やぁシズちゃん。ご苦労様だね」
 鍵は開けたままだった筈なのに、と笑いつつ、折原は音を立てて地面に飛び降りた。息を吐く平和島から距離を取りつつジャンプ、ステップ。
「今何してた」
 四十階までまさか階段で上ってきたのか、平和島の息はさすがに荒い。準備運動、深呼吸、ぽきりぽきり拳を鳴らす。風は耳をつんざいて進む。白々しい嘘みたいな夜。星一つ見えない、代わりに眼下のネオンの光。息詰まるそれらを折原は愛していた、愛そうとしていた。
「飛び降りようかと思って?」
 腹の読めない笑いを浮かべ、平和島を挑発する。
「飛んだら、死ぬだろ」
 平和島の真っ当な返答に、折原は胸を反らして笑った。嗚呼、なんて騙し易い、単細胞! 
「そうだよ、死のうとしたんだ」
 笑い混じり、こちらを睨むまっすぐな瞳を睨み返す。背の高い平和島を自然見上げながら、この角度に苛立つのだ、と手の平にナイフを滑り落とす。そして、刃を自らの喉へ。当然のように目を見開く平和島に、折原は満足げ。強く吹く風に、髪が乱れる。
「邪魔しないでくれるかい?」
 少し指を動かせば、首の皮膚一枚がぴりり、切れる。後ろへ後ろへ、後ろにあるのはフェンス、靴が当たって、冷たい金網に手を掛けた、そして地面の淵。平和島の目がいっそう見開き、猪突猛進、叫びながら折原目掛けて、ダッシュ。弾丸みたく速い動きに、しめた、折原は口角を吊り上げ、それより速く平和島の後ろへと。
 昼に始まった喧嘩は、未だ続行中だ。折原の武器は軽い身のこなしと口先三寸、平和島の武器はこの屋上には、見る限り無い。しかしこの屋上、逃げ切るにはドアの向こうか本当に空に舞うしかない。肝心のドアは平和島のすぐ背後。すれ違いざま、ナイフは平和島の喉を引っかいた。折原とお揃いの位置に、一筋はしる赤い色。
「本当に俺が自殺でもすると?」
 すり抜けた折原は、壊れたドアに隠れつつ、平和島を見上げる。更に怒髪天突く平和島から遠ざかるため階段を駆けた。平和島が追ってくる足音に、ステップを下りるテンポが上がる、本当は下りたくなんかないのに。高みを、上へ上へと思っていた。息苦しい現実から逃げる為に、それこそ、自殺するみたいに。
「なんてね」
 踊り場の、ドアを開いてマンションの中へ、空き室の目立つ階である、適当な部屋に逃げ込んで、折原は自分の下らない思索をあざ笑う。なんたって、自分はそんな殊勝な性格じゃあないだろう! 高所ラブ、それは本当だ。けれど理由はもっと馬鹿馬鹿しい。覗き窓から平和島が見当はずれの方向に走っていくのが見えた。自分よりずっと高い背の持ち主。
「シズちゃんなんか、縮んじゃえばいいのに」
 上へ、上へと目指していた。平和島を物理的に見下すためなんて、馬鹿らしいから言わないけれど!
作品名:上へ、上へ 作家名:m/枕木