渚にて
潮の匂いがする。
帝人がゆっくりと瞼を開けたとき、目の前には傾き始めた空が映っていた。どうやら外らしい、ということだけは、覚醒しきらない、ぼんやりした頭で理解した。何度か瞬きをし、どうして外なのだろうか、と、そこでようやく我に返り、はっとして、帝人は勢いよく起き上がった。手のひらにさらさらとした感触があって、思わず帝人は「えっ」、と声を上げる。
起き上がった目の前に広がっていたのは、まだ春先の、冷たい海だ。ああ、潮の匂いはこれかあ、と、納得して、それから、いやいやそうじゃなくて、と首を振る。なんでこんなところにいるんだろうか、と、目を覚ます前のことを思い出そうとして、校門を抜けて途中まで杏里と帰っていたことしか思い出せず、帝人はこれが一瞬、夢か何かなのではないかと考えた。
けれども、手についた砂の感触はやけにリアルで、爪をたててみた膝は、制服ごしとはいえちりっとした痛みを感じていた。
制服は砂だらけで白くなっていたが、破けたりなどはしていない。体には、痛むところも怪我もない。何事もなくて、よかった、と一息ついたところで、帝人は立ち上がった。まずここがどこかを調べなければいけないと、そう思って。
砂がさりさりと音を立てて、帝人の制服から落ちた。手で軽く砂を払うけれども、やはりわずかに砂が白く残る。帝人は砂をあらかた落とすと、それ以上綺麗にするのはあきらめて、歩くことにした。砂浜は見渡す限り、遠くまで長く続いており、ぽつぽつと人の姿も見えた。冷たい海に入る人は一人もいなかったけれども。
時間を確かめようとして、制服のポケットから携帯電話を探す。けれども、あるはずの場所にそれはなかった。「あれ」、と帝人は反対側のポケット、制服の内側のポケット、スラックスのポケットすべてに手を入れて、携帯電話をもっていないことに気がつくと、「あれ」、ともう一度声をあげた。「うそ」、どうしてないんだ、と。
「それは、まあ、俺が持ってるから」、と後ろから声がかかって、帝人はひどく驚いた。振り返ると、帝人の携帯を手に持ち軽く揺らしながら、いつもの、張り付けたような笑顔で、臨也がそこに立っていたので。
ただ、それで帝人は、ここがどこなのかも、なぜここにいるのかも、そしてどうして彼がいるのかも、その答えのすべてを頭の中で理解した。耳に、緩やかに、途切れなく、波の音が響いている。
臨也は、帝人の隣を歩きながら、その手を引いて、「さむいねえ」、と傍らを歩く帝人へきいた。そうですね、と帝人が答える。「できれば早く帰りたいところなんですが」、と、吐く息はわずかに白く染まっていた。ぎゅう、と握られた右手が、より強く握られた。熱いくらいに、手だけが熱を持っていくのを、帝人はぼんやりと感じている。
「帰る?やだなあ、わざわざ連れ去って来たんだけど」、と臨也は言った。そこで、帝人は、目を覚ます前、杏里と別れた後のことをようやくおぼろげに思い出した。「誘拐じゃ、ないですか」、と帝人は呆れたようにいう。「くだらないことに人を使わないでください」。
帝人は曲がり角で待ち伏せていた車に引きずり込まれ、すぐに眠らされたことを、ようやく思い出した。けれども、そう言った帝人に、「誘拐?違うよ」、と臨也は言う。「前に海がいいって、言ったじゃないか。だから、これは、合意」。
そんな合意があるものか。帝人はでかかった言葉を飲み込み、肩を振るわす潮風に身をすくめた。砂浜は冷たく乾ききって、足下を掬う。さりさりと、歩く度に砂が舞った。陽が傾き始める。ゆっくりと夕陽が落下していく。「帰りましょうよ」、と帝人は繋がれた手を見つめながらそう言った。手がぴくりと震えた。
「寒いの?」、と臨也はそこでようやく、帝人を振り返り、足をとめた。繋いでいた手を一旦放し、自分が来ていたコートを帝人の肩へかける。帝人は、「は」、と呆けたような声をだして、すぐにそのコートを臨也へ突っ返した。「いいです。臨也さんに風邪ひかれても困ります」、後味悪いので、と付け足すと、臨也はけたけたと笑いだした。帝人は不思議そうに首を傾げ、何が可笑しいのか分からず、彼のコートから手を離した。
黒いシャツ一枚の彼は、誰が見ても寒々しい。けれども、彼はそんなそぶりをひとつも見せず、つっかえされたコートのフードを、帝人の頭へひっかけるようにかぶせ、もう一度帝人の手を取り歩きだした。
「今さ」、と独り言のように言う臨也の声を、帝人は黙って聞いている。彼の顔は、深くかぶったフードが邪魔してよく見えない。帝人は繋がれた手をただじっと見ていた。
「正直にいうなら、帰りたくないんだ」。それはまた、めずらしいことをいう。帝人は驚いて、ぎゅう、と握られた手の痛みを、一瞬忘れた。
さりさりと、二人が歩くたびに、砂は足元から跳ね上がって、風に少しだけ舞って落ちていった。空から落ちてきた濃藍が、僅かに残る4列の足跡に影を落とす。
帝人は嘘吐きだなあ、と、声には出さずそう思った。どうしたって、あの街のたくさんの人が、恋しくてたまらないくせに、この人はどうしてそんな風に嘘を吐くのだろうと。「そうですか」、と帝人は頷いた。「あなたでも、そんなこと思うんですね」。
帝人は、それに静かに頷く臨也を、ようやく顔を上げて見上げた。握られた手が、少しだけ痛いのを、帝人は言うべきか言わざるべきか、少しだけ考えて、やめた。
20100327 渚にて
連れ去って〜の続きでした。