7月7日、雨?
放課後の音楽準備室に金澤の呆れた声が響く。
窓枠に飾られた小振りな笹の枝には、色とりどりの七夕飾りや短冊に紛れて、てるてる坊主がぶら下がっていた。
「だって……どうしても、晴れて欲しいんです」
手入れを終えたばかりのヴァイオリンをケースにしまいながら、香穂子が不満そうな声をあげる。
「あーあ、やっぱり雨なのかな……」
窓の外に広がるどんよりとした厚い雨雲を見て、香穂子が溜め息をついた。
「そりゃ梅雨だからな。今のうちに雨が降らないと、夏本番になって水不足になったら困るだろう?」
「ダムの方で雨が降らないと、水不足は解消しないじゃないですか。毎年、毎年……どうして今日が、七夕なんでしょうか。こんな天気じゃ、天の川なんて、絶対見えないですよね?」
7月7日。七夕――本日の天気予報は「曇時々雨」。
降水確率は60パーセント。確実に傘の手放せない一日となっていた。
「お前さん……そりゃ、七夕ってのは、本来、旧暦の7月7日だからだろう」
「あ、そっか。旧暦かぁ……確か、旧暦だとひと月ぐらい遅いんですよね?」
金澤の気怠そうな回答は、香穂子にとっては目から鱗だったのだろう。ぽんと手を打ってしきりに頷いた。
「ああ、そうだ。8月の今ぐらいなら、晴れの日も多いだろ?」
全国的に見れば、8月に入って七夕を行う地域も珍しくはない。
仙台の七夕祭りがその代表であろう。
「もう……旧暦ならいっそ、七夕の日付を8月7日に変えてくれればいいのに……」
「お前さん、滅茶苦茶なこと言うなよ」
「私、短冊に願いごとたくさん書いたんですよ。ひとつぐらい叶えて欲しいじゃないですか」
香穂子の言葉につられるかのように、金澤は笹の枝を一瞥した。
遠目に見ただけだけでも結構な数の短冊が、つり下げられているのが分かる。
「おいおい、随分と欲張りだな」
「半分は先生にも関係のある願い事ですよ」
その内容に何となく予想についた金澤は、うんざりしたような声を出して、マグカップの中身をあおる……が、それは空だった。
「よし、七夕ついでにひとつ質問だ。――織姫と彦星がどうして天の川のこっちと向こうに引き離されたか、お前さん、知っているか?」
「えっと……何ででしたっけ……?」
突然に出題に香穂子は小首を傾げて、金澤の顔を見つめた。
誰もが一度は聞いたことのある神話でも、時間が経てば忘れてしまうものだ。
「――互いの仕事をさぼって、逢い引きばかりしていたからだよ」
「まるで先生みたいですね。森の広場で猫と遊んでばっかり!」
「ぐっ……俺のことは置いといて、だ。今はお前さんの方が問題だろ?」
「はい……?」
何のことですか? という抗議の目線を向けられ、金澤は猫っ毛をぼりぼりとかいた。
「来週から、期末試験だよな。テスト勉強、ちゃんとしているのか?」
「ううっ……」
できれば忘れていたかった現実を指摘され、香穂子は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ほい、それを理解したら今日はちゃっちゃと帰る。学業あってのヴァイオリンだぞー」
この程度の我が儘で、音楽準備室を「出禁」にされては堪らない。
ブツブツと文句を言いながらも、香穂子は荷物を纏めて、準備室を出て行った。
☆ ☆ ☆
「やれやれ……」
静寂を取り戻した音楽準備室の主は、マグカップに煮詰まったコーヒーを注ぐと、窓際の壁に寄り掛かった。
「七夕……か」
カップの中身を一口すすり、香穂子が飾った笹の枝を、見るとはなしに眺める。
笹には色紙を切って作られた、色とりどりの短冊がぶら下がっていた。
そのうちの一枚を手にとって、裏返してみる。
――先生のお家に遊びに行けますように
「却下。次いこ、次」
いきなりのジャブに金澤は低いうなり声をあげて、隣の短冊をめくる。
――もっとヴァイオリンが上手くなりますように
「そりゃ地道に練習するしかないだろう」
――英語のテストが易しい問題でありますように
「勉強しろ。俺は裏取引はしないぞー」
――先生と山下公園に行けますように
「あいつ……あそこがどういう場所か分かっているのか?」
――先生と観覧車に乗れますように
「いや……そいつはやっぱりマズイだろ」
――先生にまた、クレープをご馳走してもらえますように。今度はスペシャルで。
「ははは、頑張っていれば、そんなもん、いつだっておごってやるよ」
短冊には実にささやかなものから、それは無理だ! と叫びたくなるような大掛かりなものまで、様々な願い事が書かれていた。
彼女が宣言した通り、その大半が自分との何かを願う内容である。
「あとは……」
金澤は笹の一番高い所に括り付けられた、きらびやかな金銀の短冊に目を向けた。
金色、銀色は特別な色だ。
少し悩んで、銀色の短冊に指を伸ばす。
――早く先生と恋人同士になれますように
「ま、予想の範疇だな……今はまだ、予約ってことで勘弁してくれや」
立場上、大義名分が無ければ今以上に距離を縮めることができない関係が不満なのは、金澤とて同じである。
我慢させている分、晴れて日の当たる関係になった暁には、存分に甘えさせてやろうと思った。
「これで最後……だな」
一呼吸置いてから、最後に残った金色の短冊を裏返す。
――いつか先生が、歌えるようになりますように
金澤は深い溜め息をついた。
おそらく、もしもひとつだけ願い事が叶うのならば、彼女はきっとこれを願うのだろう。
そのための特別な金色の短冊に違いない。
「気持ちは有り難いが……生憎と神頼みは好きじゃないんでね」
金澤はそう言って、金の短冊を笹の枝から外すと折り畳み、白衣の内ポケットにしまった。
――神頼みの前に、まだ自分でできることはいくらでもある。
それが上手くいかなかったとき初めて、猫神様に祈ろう……。
金澤は無意識に掴んでいた煙草の箱をデスクの抽斗に押し込むと、大きな伸びをして、窓の外に目を向けた。
心なしか西の空は明るくなり、薄くなった雲が黄昏色に染まりはじめていた。
「こりゃ、案外……見れるかもな、天の川」
(Fin)