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諸星JIN(旧:mo6)
諸星JIN(旧:mo6)
novelistID. 7971
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静寂

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 その日は随分と蒸し暑い夜で。
 昼間の戦の熱気も相まって、陣地の中は寝苦しい呻き声が渦巻くような。そんな夜だった。
 伏犠は与えられた天幕の中で、寝台に腰掛けたまま蝋燭の灯りを頼りに人の子から借りた書を読んでいた。いつものような鎧姿ではなく、ゆったりとした布の衣と扇を片手に書をめくるその姿は仙人然としているように見えなくもない。
 寝台からだらりと下げた左足の腿に曲げた右足首を乗せ、股座に置いた書を捲る。人の子には冗長と称されるその本も、なかなかどうして、面白い。
 時折手にした扇で扇ぐことすら忘れるほどに書に没頭していた伏犠だったが、不意にその視線を上げる。向けた先に天幕の入口があり、そこに人の気配があった。
 そこから声がかかるその前に伏犠は訝しげに幾度か瞬いた後に、ほぼ無自覚に、目元が和らいだ。
「…失礼しますよ」
 天幕の入り口に下がる布を上げて顔を覗かせた左近に対し、伏犠は扇を持ったままの手で招き入れる。
「お主から尋ねてくるとは、珍しいのう。夜這いにでも来てくれたか?」
 まるで寝床から抜けだしてきたままの夜着姿の左近に何事かと首を傾げたものの、戯れのように冗談を投げる。
 しかし対する左近は至って真顔に、否、どこか思いつめたような面持ちで寝台に座る伏犠の眼前に立ち。
「…ああ、まあ、そんなとこです」
 言いながら伏犠の肩へと手を置いて覆いかぶさるように……して、そのまま伏犠の傍ら、寝台へと倒れ伏す。
 とっさに左近の体を支えるように出した腕でその体を支えきれず、伏犠もまた巻き込まれるように寝台へと仰向けに倒れこんだ。
 何事だと左近を見た伏犠の眉間に皺が寄る。左近の顔に疲労の色が濃い。
 眉を寄せた伏犠に気付いて、左近がにんまり、と笑ってみせた。
「…ちょいと、寝台貸してもらえませんかね?」
「それは…構わんが」
「ありがとうございます」
 驚きと訝しみながらも許可をくれる伏犠に礼を言い、左近は履物を脱いで本格的に寝台へと寝そべった。
 枕を奪って仰向けに寝転がり、蝋燭の灯りですら眩しいように右腕を両の瞼を覆うように乗せて、漸く安堵したように大きく息を吐く。
 これほどまでに疲れ果てた姿を見せるのは珍しい。伏犠が上体を起こし、股座に置いていた書物を傍らに置いて左近の顔を覗き込む。
「何があった?」
「…いいえぇ? 何も?」
 目元を隠したままに左近が言う。
 このような状態で、意地を張ることもあるまいに。
 伏犠が右手を伸ばして左近の左頬に触れる。左近の頬は少しばかり熱く、伏犠の指は人の肌より幾分冷たかった。
 左近が目元を覆っていた腕を持ち上げ、ちらりと伏犠を見る。口にするかするまいかを逡巡するように唇を開いては閉じた後、思い直したようにぼそりと呟く。
「……声が、ちっとばかしうるさくて」
「声?」
「………昼間の戦で張り切り過ぎたのと、今の時期が、ね」
「…ああ、」
 合点がいった。
 この世界に人々が呼び出されてから刻まれ始めた暦では、今が七月。盆の時期だ。この地で妖魔に襲われ亡くなった者も多い。そうした魂がこの時期に帰ってきていることも、十分に有り得る。
 まして今日の昼間の、否、ここ暫くの戦は激戦だった。疲労した左近がそうしたモノに対処ができなくなっていてもおかしくはない。
「気にしすぎだって言われちまえばそれまでなんですがね」
 左近が左手を上げて頬に触れた伏犠の手を自分の頬に押し付けるように重ねる。その冷えた手が心地良いように瞼を伏せ、深く息を吐いた。
「……あんたの周りは、静かでいい」
 告げられた言葉は珍しく伏犠を頼る類の言葉だ。
 伏犠は驚きで表情を強ばらせ、それから徐々に、目元から頬にかけて笑みが浮かぶ。いつもの人を食ったような笑顔とは違う、柔らかい笑みだった。残念ながら、目を閉じたままの左近にはその顔を見ることはできなかったが。
「…鬼左近といえど、幽霊は苦手か?」
「いつもは気にもなりませんがね。時期と状況がまずい」
 触れた頬をくすぐるように撫でる指先に、目を閉じたまま左近が笑う。
「…それよりも俺は…あんだけうるさかったのが近づいただけで一切聞こえなくなるあんたの方が、こわいと思いますよ…」
 答えるその声はとろりと力が抜けている。
 よほど消耗していたのだろう。さほど時間を置くことなく、左近の呼気が寝息へと変わる。
 その寝顔を覗きこんだまま、伏犠は頬に添えた手をそっと離し、起こさぬようにその額に乗せられていた左近の右腕を下ろしてやり。ふと引き寄せられるようにその髪を撫でる。
 こわいと口にしながらも、その言葉と裏腹に無防備な姿を晒す左近にひどく甘い顔をして。
「…惚れた弱みじゃのう…」
 呟いた伏犠の周囲で、空気が揺れる。天幕の入り口が開いたわけでもないのに、天幕の中だけで、静かに風が流れ始める。仄かな冷気を孕んだ、清涼な風だった。
 寝苦しさから開放されただけでも楽になったのか、左近の寝顔が少しばかり穏やかになる。
 伏犠はもう一つ、右手の中指と人差し指とを揃えて立て、その指先によく眠れるようにとのまじないをかけて左近の額へと触れる。
 仕上げに身を屈め、指先で触れたその額へと、触れるばかりの口付けを落とす。
「良き、夢を」
 静かに囁くその声が聞こえたのか、眠る左近がほんの僅かに微笑んだ、気がした。
作品名:静寂 作家名:諸星JIN(旧:mo6)