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香る温度

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 ふわりと、覚えのある匂いが鼻腔を擽った。
 硝煙の匂い。彼の身に染み込んだ……。
 次いで、何かが背中を柔らかく覆った。微かに肩にかかる重さ。
 ゆっくりと目を開けたツァウベルンはそこで、自分が少しの時間、浅い眠りに引き込まれていたことを知った。
「……風邪をひく」
 傍らで、ビュクセが呆れた声で呟いた。ツァウベルンは顔を上げて彼を見上げる。コートのない、身軽な姿でビュクセはそこに立っていた。
 風邪をひいたら何か困るのかい、とツァウベルンは言いかけて、やめた。あまりに無神経な戯言だ。
 夜風から身を守るようにかけられたコートの襟元を、そっと引き寄せてツァウベルンは微笑んだ。
「ありがとう、ビュクセ君」
「…………」
 ビュクセはツァウベルンから視線を外したまま、何も答えなかった。
 見渡せば、屋上にはいつのまにか、ツァウベルンとビュクセ以外の人はいなくなっていた。先ほどまでは、最後の夜を惜しむように、何人かの者が入れ替わり、姿を見せていたのに。
 気を使われたのかもしれないなと、気付いてツァウベルンは、少し笑った。
「ビュクセ君はまだ……怒っているのかい?」
 訊ねると、短い空白の後、ようやくビュクセが口を開いた。
「俺は最初から、怒ってはいない。納得が出来なかっただけだ。けれど……仕方ない」
 仕方がないといいながら、今も納得はしていないような口振りだった。ツァウベルンはそっと目を伏せた。
 星の命を束ねる。
 一なる王との決戦において、その作戦が採られることが決まってから、数名の者が密かに動き出した。ある者は自らが仕える主を、ある者は愛する誰かを、生かそうと必死になった。けれど、今日この日まで、誰一人、その望みを叶えられずにいた。
 大切な誰かの命を乞う者が自らの命を惜しまないように、生き続けることを願われた者たちも皆、それを受け入れはしなかった。アストラシアの姫も、フューリーロアの王も、失われた帝国の幼い兄妹も、誰も。
 人の命の尊さに違いはないと彼らは言う。自分ひとり、逃れようとは思わない。守るために必要な命なら、惜しみなく捧げる、と。
 ヴェルファー機関の者達が、団長にツァウベルンの素性を明かして、決戦の前に祖国に帰して欲しいと嘆願していたのを、ツァウベルンも知っていた。けれどツァウベルンもまた、それを頑として聞き入れなかった。
 貴方は祖国に必要な人間だと言った、ビュクセの言葉は、とても嬉しかったのだけれど。

 人の命の重さは平等だと、団長である少年も、そう言った。今から数時間前、夕日に焼ける空を見ながら。だけど、と真剣な声が続けた。
「それでも、あんたを生かしてえって思う、あいつらの思いが間違ってるとも、オレは思わねえんだ。オレは、あんたらの国の内情とか、政治的なことなんて何も知らねえけどさ」
 ツァウベルンは美しいその景色を目に焼き付けるようにじっと眺めながら、その言葉を聞いた。
「そんなこと言ってたら統制が崩れるって、他の奴らにも怒られたんだけどさ、それでも……あんた本当に、国に帰らなくていいのか」
 彼はこうやって、決戦の前日になってまで、最後の意思をまた、確認して回っているのだろうか。明日から、その全てを背負って生きなければならない当人が。
 ツァウベルンは少年を振り返った。固く握り締められた拳が微かに震えているのが目に入った。
 本当は、彼自身が、一人でも多くの者に生きて欲しいのだろう。少し、申し訳なく思いながら、ツァウベルンは口を開いた。
「本当はね、私はとても怖いんだ」
「……それなら」
「いや、怖いのは死ぬことではないんだ。もし、私がここを逃げ出して、君は明日、決戦に臨んで、万が一、本当に万が一の話だよ、君が敗れることがあったなら……彼らの尊い犠牲すら、すべて無駄に終わったなら、それはもしかしたら、たったひとつ生き延びた私の命の所為ではないのかと、後悔することになるのがとても怖いんだ」
 少年はそっと目を伏せた。噛み締めるように、ツァウベルンの言葉を聞いていた。
「それにね、明日、君が一なる王に勝利して、また平穏な世界を取り戻せたとして、大切な者たちを犠牲にして成り立つその未来に、私の居場所はあるのだろうかと思うのだ。私は恐らく、その世界を受け入れられない。憎みさえするかもしれない」
 そうして、彼らが望んだこの命さえ、疎ましく思うだろう。
 ツァウベルンは俯く少年を見据えたまま、だからね、と続けた。
「だから私が怖いのは、明日死ぬことではない。その先の未来に生きることだ」
 彼らの犠牲の先に生きること。
 ……彼のいない未来を、生きること、だ。
 僅かに肩を震わせた少年に、ツァウベルンは目を細めた。
「すまない。君に、していい話ではなかったね」
「いや……」
 彼はゆっくりと目を上げた。そして静かに、わかるよ、と言った。その苦しい言葉を、彼はまっすぐにツァウベルンを見て、毅然と背を伸ばして言った。
 夕日に染まる世界よりも、切なく美しい姿だった。

 ツァウベルンはふいに立ち上がり、肩にかけられたコートに腕を通した。ビュクセのコートは、ツァウベルンには、袖も裾も少し長い。前身ごろを掴んで鼻先に寄せ、くんと匂いを嗅いだ。馴染んだ、硝煙の匂い。
「ねえ、ビュクセ君! このコート、貰ってもいいかい!?」
 ツァウベルンの突然の行動を怪訝そうに眺めていたビュクセに向かって、そう訊ねた。それから思いついて、言い直す。
「いや、貰うよ、貰うことに決めた! 命令だ、いいね!」
 ビュクセは眉を顰めたが、ツァウベルンの命を拒否する意思は、ない。
「別に構わないが……命令ならば、報酬は?」
「見返りが欲しいのかい? 強欲だね!」
 その意図に気がついて、ツァウベルンはくすりと笑った。
「まあいい、何が欲しい? と言っても、私が着ているものは全て、こちらに来てから揃えたものだけれど……」
 ビュクセはツァウベルンに向き合うと、ふいに手を伸ばした。頬を掠めた指先が耳朶に触れると、ツァウベルンは擽ったそうに身を竦ませた。ビュクセの指がそっと、耳に嵌った飾りを外した。
「ああ、それならば確かに、私が祖国から身に着けて来たものだ」
「……これがいい」
 ビュクセはそれを、大切に、手のひらに包み込んだ。
 それからまた腕を伸ばし、ビュクセのコートにくるまれたツァウベルンの身体を、抱き締めるように引き寄せた。ツァウベルンが小さく笑う。
「耳飾りだけじゃ足りなかったのかい?」
「……全然、足りない」
 吐き捨てるように呟いて、ビュクセを見上げるツァウベルンの唇に、最後の口付けを落とした。

作品名:香る温度 作家名:和泉瑞葉