狂犬
自分で歩いているからそうなっていると、頭で解ってても実感がない。
何だろうなあ。
いつからこんなんだっけ。
頭で解っていても、実感がないから結局解らない。
右にゆるり。
左にゆるり。
ぶれる視界に映るのは破壊された街だ。
あちらこちらに瓦礫が転がっていて、ぎらぎらした太陽に照らされている。
あっちィなあ。
水、ねぇかなあ。
3日水を飲まないと人間は死ぬんだって、何処かで聞いたことがある。
それにしちゃあ随分と何かで喉を潤した記憶がない。
最後に飲んだものも食ったものも覚えていない。
ただただ、視界を揺らして歩いていたことしか解らねえ。
まだ死ぬ頃合いじゃねぇのかなあ。
それとも、水くれぇ飲まなくても死なねぇってか。
俺ァ人間じゃねぇのかもなあ。
そういやそんなことを、誰かに言われた気がする。
何でだっけなあ。
何処でだっけなあ。
ああもう、考えるのも面倒くせぇ。
歩いているのも億劫になって、一際大きなコンクリートの陰に身を寄せた。
日差しがないから選んだのに全然涼しくなくて、思わず舌打ちをする。
そのとたん。
「お前、グンジか」
でかい男がのぞき込んできた。どっから湧いて出たんだ。
この糞あちィ中がっつり着込んで、見てるだけでこっちが汗をかきそうになる。
そのムサい男が浅黒い顔をぐっと近付けてきたもんだから堪らねえ。
とりあえず顔を反らした。
「………はぁ?」
「CFCのグンジかって聞いてるんだ」
「しーえふしィ?」
覗きこまれた目をふらりと外す。
どっかで聞いたことあんなあ。何だっけなあ。
「あー……しーえふしー……」
ずっと歩いてきたからよく解んねぇんだよ。
暑ィし喉渇くしよォ。
それでも、何度か呟くうちに何となく字面が浮かんできた。
仰々しいエンブレムに仰々しい軍服。
そん中に、なんか俺っぽいのがいる…気がする。
「あー、そんなとこにいたかもなあ」
「いたかもって……おい、てめぇイっちまってんのか?」
今度は顎を掴まれた。ギラギラした眼が目の前だ。
そんなんされたら普通びっくりするだろうが。
だから思いっきり爪で引っ掻いてやった。
……爪?
俺ァあの爪何処やったんだ?
ってか、爪ってなんだ?
僅かに掠ったげんこつが、野郎の頬に痕をつける。
「案外力残ってんじゃねぇか。目ェギラギラしてっぞ」
ニヤリと笑われてイラっとしたけどそれどころじゃねえ。
今俺何を考えたっけ?
何か大事なモン忘れちまった気がする。
でも解んねぇなあ。
こんな暑苦しいところで何考えても解るわけねえよなあ。
男は唇についた血をべろりと舐めてからこう言った。
「狂犬ってぇあだ名もあながちウソじゃねぇみてぇだな」
きょうけん?
きょうけんって、狂犬であってんのか?
あー……。
そうだ、思い出した。
俺ァ狂犬なんて呼ばれたな。
そのしーえふしーってところで。
どうしてそんなあだ名がついたかなんて覚えてねぇけど。
ホントに何も覚えちゃいねぇ。
それにしてもこいつ、俺より俺のこと知ってんな。
「CFCはどうなった」
「あぁ?」
「少し前に戦闘があった。てめぇはそこにいたはずだ」
「覚えてねぇ」
こればっかりは確実だぜ。
だって何にも覚えてねぇんだもの。
「ふらふら歩いててよォ、いつからとかその前とか、よっく解んねぇんだよな」
こう、景色がゆるりゆるりってよ。
ハハっと笑うと、ざらついた喉が張り付いて声がひきつった。
それを聞いて男は眉間の皺を更に深くした。
俺、別に変なこと言ってねぇよなあ。
「その少し前ってなあ、いつぐれぇなの」
「……1週間前だ。てめぇホントにイカれちまってんな」
おいおい、そんな呆れた顔で見んなよ。
覚えてねぇんだからしょうがねぇだろうが。
それにしても1週間なあ。
そりゃ色々忘れるだろうし、喉も渇くだろうよ。
メシは……あー、考えだしたら腹まで減ってきやがった。
よく生きてんなあ俺。
水飲まねぇと3日で死ぬって、そう言ってた気がするんだけどなあ。
あー、やっぱり俺ァ、
「俺ァ人間じゃねぇらしいからなあ」
そう言って見上げた野郎の顔は、一瞬驚いて、それからなぜかニヤリと笑って、
「ンなこと知ってらぁ」
ホントに、俺より俺のこと知ってるってな顔で言いやがった。
「CFCの狂犬つったら、泣く子も黙る殺人鬼だったからなぁ」
あーもう、しー何とかだのきょうけんだの、もう辞めろよ。
全部解んねぇんだよ。解んねぇことはどうでもいいんだよ。
俺ァ今喉が渇いてんだ。あと腹も。
グダグダ喋ってる暇があったらなんか寄越せよジジイが。
そう言うと、野郎は喉の奥から出るみてぇな笑い方して立ち上がった。
「来いよ。水とメシと、遊びのある場所教えてやらぁ」
「遊びィ?」
つられて立ち上がって、すたすた歩いて行くあとをゆらゆら着いていく。
水とメシはいいけどよ、遊びってなんだよ。面白ぇのか。
「きっとてめぇも気に入るぜ」
振り向きもしねぇで答えた奴の左手には鉄の棒が握られていて、
そこにべっとりついた赤いものを見て、ぼんやりした頭に浮かんだ2つのこと。
いち、こいつもきっと人間じゃねえんだろうなあ。
でもってに、こいつの言う遊びはきっとすげえ楽しいんだろうなあ。
「そしたら爪、探さなきゃなあ」
もう、覚えてねえことなんて、どうだっていいや。