凌霄花 《第一章 春の名残》
「キャン!」
クロは怖がってどこかに逃げてしまった。
飛びかかった助三郎の身体の下には、格之進がいた。
しかし、かなり気まずい物が有った。
行水の為、諸肌脱ぎになっていた早苗は突然『変われ』と言われたので慌てて格之進に変わった。
しかし、脱いだ着物を着こむ間が無く、片肌脱ぎの状態で夫に飛び掛かられていた。
一方、飛び掛かった助三郎はどうすべきか皆目見当がつかず、黙って妻の眼を見詰めていた。
男の身体を見られる事を極端に嫌がる妻の事。必死に眼だけを見て、身体は見ていない事を主張した。
しかし、彼の口は墓穴を掘った。
「…もうちょい日焼けした方が、男らしくてかっこいいんじゃないか?」
次の瞬間、船内に頬を張る盛大な音が響き渡った。
夜中。助三郎は船室ではなく、外で海を眺めていた。
「痛いなぁ…」
格之進の『手』で、格之進の『馬鹿力』で張られたせいで赤く腫れていた。
怒り心頭の妻から離れ、痛む顔を海風で冷やそうとのことだったが、あまり効果は無かった。
少しすると、人の気配が。
それは早苗だった。
「助さん…」
背後に彼女は座った。
「格さん、また怒りに来たのか?」
助三郎は痛む顔に耐え、笑い顔を作った。
その彼が振り向いて眼に入ったのは泣きそうな男の顔だった。
「…泣くなよ。お前は何も悪くない」
早苗はそっと腫れた夫の頬に触れ、謝った。
「…ひっぱたいて、悪かった。こんなゴツくてデカイ手で、痛かったろ?」
「…気にするな」
暗い雰囲気が二人の間に漂ったが、助三郎は持ち前の明るさで冗談を言った。
「早苗の柔らかい手で触ってくれたら、直ぐに治るんだがなぁ」
その言葉で早苗はやっと笑った。
珍しく怒らない彼女に、ホッとした彼も笑った。
しかし顔が痛んだのですぐに止めた。
落ち着いた様子の早苗は背後からある物を引っ張り出した。
「詫びにこれ持ってきたんだが、やっぱり姉貴に甘えるほうが良いか?」
早苗は酒を持っていた。
いつもなら悩む助三郎だったが、制約がある今答えは一つ。
「…早苗って言いたいが、今は危ない。今夜は酒だ」
「わかった」
二人は男同士で酒を酌み交わすことに決めた。
よく晴れた海の上に、綺麗な月が掛かっていた。
穏やかな波の音しか聞こえない中、二人はその穏やかな景色を肴に酒を飲んだ。
「海って本当に広いな…」
「だよな…。池や湖とは大違いだ。今は穏やかだが、荒れたら怖い。人間なんかひとたまりも無い」
その言葉に、早苗はふと思った。
「助さんは、泳げるよな?」
「まぁな。お前は?」
「…泳げない」
女は泳ぐ鍛錬などしない。当たり前のことだった。
助三郎はそのことに気付いたが、酒の席では二人は男。
なにも聞かず、さわやかに言った。
「まぁ、万が一溺れたら助けてやるから、心配するな」
優しい言葉と表情に早苗はホッとした。
「ありがとう。でも、その前に危ないところには近付かないでおく」
「それが賢明だな」
二人で笑い合った後、助三郎は真剣な面持ちで早苗に酒を注いだ。
「…今回の仕事、長くなるかもしれないが、よろしく頼む。格之進殿」
早苗も、彼に倣った。
「こちらこそよろしく。助三郎殿」
グイッと二人で杯を干し、これからの仕事に思いを馳せた。
「さて。朝まで飲むぞ!」
そう言った助三郎を早苗はいつものように止めた。
「ダメだ。ほどほどが一番」
そう言いながら、船上の酒宴は朝方まで続いた。
次の日、日暮前に二人が乗った船は赤穂に着いた。
潮の香りが漂う港を歩く二人の眼に城が見えた。
「あれが赤穂城だな」
助三郎が足を止めた。
「天守が無いな。規模はでかいのに」
天守が有ればかなり見ごたえのある代物になったであろう建築物を前に、早苗は不思議に思った。
すると、助三郎が彼女に言った。
「天守作る前に金が無くなったらしいぞ」
「へぇ。そう言うことか」
「お前ならちゃんと予算やりくりできそうだよな?」
「いや。金の額が違う。難しいと思う」
そんな話をしている二人に、女が声を掛けた。
「お二人さん、お船の旅は楽しかった?」
それはお銀だった。
「え? なんで居るんだ?」
助三郎は驚いた。
一方、早苗は把握済みだった。
「早かったな。いつ着いた?」
「昨日の朝。弥七さんはもっと前。やっぱり敵わないわあの人には」
「弥七も居るのか?」
助三郎は二重に驚いていた。
その姿に、お銀は訝しげな顔をした。
「ねぇ、助さん。貴方なにも格さんから聞いて無いの?」
その言葉に、助三郎はジロリと同僚を睨めつけた。
「…格さん、どういうことだ?」
いつしか仕事の顔になっている夫に、早苗は詫びた。
「すまん。ついうっかり…」
業務連絡が滞っていたことに、早苗は反省した。
「まぁいいわ。住む家は確保できたし、最初の早駕籠の到着からの動向はすべて把握済み」
お銀がそう報告すると、二人はまたも彼女たち忍びの仕事の良さに感心した。
「すごいな。さすがお銀」
ほめられた彼女は、鼻高々にはならなかった。
その代わり、少し疲れた顔で言った。
「二人とも、この仕事は覚悟した方が良いわ。長丁場になりそうだから…」
「そうなのか?」
少し不安げに窺うとお銀は間近に見える城を見やり、溜息をついた。
「御城代がね、『昼行燈』で有名だから…」
助三郎はその言葉に引っかかりを感じた。
「大石内蔵助殿。色々と功績を聞いた事あるが…。本当に『昼行燈』なのか?」
お銀は彼の言葉に驚いたようだったが、見解を変えることは無かった。
「わたしはそう思う。弥七さんは違うって言うけど…。一度二人で一度見てくると良いわ」
二人は彼女の言葉に従うことにした。
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世