雪割草
「さて、助三郎に格之進。明日がいよいよ出立の日じゃ。言っておくことがいくつかある」
「はい」
お供となる二人は声を揃えた。
頼もしげな彼等に、光圀は満足げな表情を浮かべ言葉を続けた。
「道中、わしは『越後のちりめん問屋の隠居、光衛門』じゃ。老公ではなく、隠居と呼びなさい」
「ご隠居…」
再び声が揃った。
「おや? お前さんら気が合うみたいじゃのぅ」
意味ありげに光圀は早苗の顔を見た。
ドキッとした彼女はちらっと隣の許婚を盗み見た。
すると、なぜか彼と眼が合った。
再びドキッとした早苗は、失礼にならないようそっと視線を逸らした。
若い二人を面白そうに眺めた光圀は話を続けた。
「そんなお前さんら二人は、助さんと格さん。店の手代でいいな?」
「はい」
それから細々とした連絡を受け、大まかな旅の日程に関する知識を三人で共有した。
一通り話が終わると、光圀からお言葉が。
「では、明日の早朝出立じゃ。今晩はしっかり休んでおくように。特に助三郎。寝坊するでないぞ」
灸を据えられた助三郎は少しイヤそうな顔をしたが、素直に返事をした。
「わかっております」
早苗が帰宅しようと西山荘の門をくぐったとき、彼女は突然駆け寄って来た助三郎に呼び止められた。
「格さん!」
慣れない呼び名に緊張した彼女だったが、助三郎の用件が気になった。
「…何か?」
バレたかもしれない。
少し不安になったが、そんなことは心配なかった。
助三郎はよく通る声でさわやかに言った。
「明日からよろしくな!」
至って普通の展開。
安堵した早苗は、彼に返した。
「…あぁ。こちらこそよろしく! …助さん」
「じゃあな! 明日の朝!」
助三郎はそう言うと足取りも軽く帰宅の途についた。
早苗はその場に立ち尽くし、遠ざかる許婚の背を見つめていた。
彼女は、突如としてわき上がった複雑な感情を整理しようとしていた。
『助三郎さま』とは呼べない。
『助さん』と呼ぶしかない。
彼は許婚ではなく、同僚。
自分は『男』…。
「どうした? 疲れたか?」
彼女の隣に、いつの間にか又兵衛が立っていた。
「あ、いえ。大丈夫です」
気を取り直し、早苗は家へと歩き始めた。
道中、又兵衛が彼女に話しかけた。
「助三郎、気付いて無かったな」
「はい…」
いつにない真剣な口調で、彼は娘に問うた。
「…お前は本当にこれで良いのか? 国であいつの帰りを待つ道もあるんだぞ?」
その顔は、『息子』ではなく『娘』を心配する父親の顔だった。
「私が決めたことです。もう後には引けません…」
早苗は、改めて己の心を決めた。