瓦礫
彼と自分の間にあるものは、いったいなんであろうか。目に見えぬ空間か、壁か。それとも溝。何であっても、二人の間で行き来する言葉は常にその何かによってわずかに捻じ曲げられてしまう。その蓄積された結果が今の関係を作り上げたといっても過言でない。彼は本当に伝えるべきことはひとつとて通じていないのに、行動ばかり先走って言葉との齟齬に苛立ちを感じている。わずか、捻じ曲がっただけの言葉はそれだけでもとの色合いを損ない、がらくたに成り果ててしまう。自分たちにとっては。言葉の底に沈めた真意はみな空間だか壁だが溝だかを通る間に零れ落ちていくのだ。それが崩壊したならば、本意をつかむことも可能だろうか。あるいは飛び散ってしまうのだろうか?言葉の底は何色をしているのか、本心は美しいものなのか、見当もつかない。今の二人を考えるなら汚泥と同じ重さで闇に混じる色と同じく、酷く醜い正視に堪えないものだと思うが。だがしかし忘れてならないのはそれは捻じ曲がった言葉が蓄積された結果だということで、本当のことは誰もわからない。がらくたと瓦礫の砂風が吹く荒野でひっそりと互いの温度を探る自分らには足元さえ不確かだった。相手にしがみつくことさえ出来ない。落ちてしまえばそれまで。全く、恐ろしい。妹子は口元だけで笑う。曽良よりほんの少し長く生きる彼は、そのぶんだけ積んだ経験がある。年月とともに学んだ狡猾さがある。だから、危険なことはしたくない臆病になった大人なのだ。近づく足音とともに、ぼう、と提灯が浮かび上がり、足袋のはいていない素足だけが見える。やがてきちんと曽良の姿を認識した。
井戸の少し手前で立ち止まり、何も言わず表情の乏しい顔でこちらを見ている。井戸のふちから腰をあげ、曽良の傍に歩み寄る。声をだしては祟られるとでもいうかのように、互いに何も口にしない。話すことすらないのかもしれない。三歩手前まで妹子が来たところで、曽良は背を向け歩き出す。
うまく伝えられない、歪な捻じ曲がった、がらくたと瓦礫の山を構成するだけのものなど、はじめから無いほうがいいのだ。そうすればこれ以上蓄積されることもなく、砂風に耳ふさぎ佇み留まっていられる。真意を汲まず偽りをしらず、ただ視線と体温を探るのみ。空間だか壁だか、溝だかによって分断されたまま、互いの思い込みで作られた幻影を追い。ある意味それは幸せな話だ。しかし自分らは汚い、見たくもないと思われる沈んだそれを、知りたがっている。かたち、色、手触り、におい。それは停滞していたのでは出来ぬことである。言葉の底に手を突っ込み、汚泥にまみれ、自ら傷だらけになり生身と接していなければならない。崩壊させるべきものは、ずたずたにこちらを切り裂く。少なくとも妹子はその二人の間にある何かに触れるたび、吐き気がするのだ。ぐらり揺れる足場でそれ以上、かき乱される訳にはいかない。曽良はそれを恐れない。何があろうとも、彼の意思はかわらない。ぴんと伸ばされた背筋がそれを如実にあらわしているようだ、と何時も思う。昔は自分もそうだったろう。今はもう、無理だ。とうてい真似出来ない。真っ直ぐ研ぎ澄まされた刃に似た姿勢は、時折妹子を激しく傷つけて冷たさを思い知らせる。溶かしてしまうほどの炎を、持っていない。あの日に捨ててしまった。青い温かな安らぐ光が瞬き消えてしまったとき、火種ごと放り出してしまおうとしてそれは許されず、くすぶっている。
縁側からあがり、部屋の壁にもたれる。提灯の蝋燭を行灯に移す。その白い手をみて意図せず曽良の名を呼んだ。
「曽良」
ちらと視線をよこして彼は続きを促す。しかし妹子は口を閉ざした。何か言おうと思えば、幾らでも言葉はある。だが、自分は臆病なのだ。弱い蝋燭の明かりは周囲だけを照らし影を強調して、表情を読み取ることは難しい。曽良の濡羽色の瞳がとび色の妹子のそれを捉える。砂風が音を散らし、がらくたに手を伸ばそうとする妹子の右手を曽良が掴んだ。二人の間にある何かに、妹子の身体は触れる。離そうと身を引くと、力任せに現実の床に縫いとめられる。吐き気がする。
落ちて行き着く先は全てを投げ出した終焉だ。逃げ出し安寧を求めることを、かりそめの安らぎと言葉におぼれることを、曽良は許さない。探り出した温度を変えてゆくのは曽良のほうだ。美しい言葉や言の葉を連ねるのを重んじる彼はだからこそ余計に蓄積されていったそれを知ることを望み、二人の間にある何かを見つめている。砕いて壊したところで飛び散ってしまうかもしれない不安などしていないらしい。
畳の上を無意味に手が滑り爪が引っかく。刃は凍えるような冷たさを分け与えながら無造作に傷つける。こんなものが前進だと、行動と言葉の齟齬をなくす方法だというのなら。意識しなければ吐き出せないほどの重圧感に襲われくるりと回る頭で妹子はただ疑問と恐怖に埋め尽くされていくのを感じた。