雪柳
「本当に申し訳ねぇ。ほんの少し眼を離したすきに居なくなってたんで」
すると、助三郎も自分の荒れように気付き、深呼吸して落着きを取り戻そうとした。
「……悪い。怒鳴っても仕方ない。元は俺が悪いんだ。すまなかった怒鳴って」
「いえ」
そして、気持ちを切り替え主探しに集中することにした。
「一つ前の宿には居ないはずだ。ここまで来る途中見なかったからな。向こうの宿は?」
「先ほど行きましたが、そのような人は見なかったと……」
「どこに行かれたんだ? 無事であってほしいが……」
不安な表情を浮かべる助三郎に弥七は指示を出した。
「とりあえず、助さんは早苗さんと一緒に、それとお銀にこの書付を渡してください。あっしはもう一度あっちの宿場を探します。では……」
そう行って音もなく消えた。
弥七ほどの男が見つけられないとなると、助三郎、早苗、お銀には無理に近かった。
強烈な焦燥感と、恐怖が助三郎を襲った。
「……やばい。……ご隠居が」
助三郎は頭を抱えながら茶店に戻った。
光圀は厳しい主だが、同時に優しい。
そんな主を助三郎は父親のように慕っていた。
それを自分の過失で失う。とてつもなく恐ろしかった。
大事な人を失うかもしれないという怖さを、もう二度と味わいたくなかった。
助三郎が経験した中で一番恐ろしかったのは、早苗を自殺未遂で失いそうになったあのことだった。
それを再び思い出した助三郎の脳裏に、主を失うことでによって引き起こされるもう一つの恐怖が浮かびあがってきた。
主光圀が命を落としたら、間違いなく助三郎は切腹。
そのことは百も承知。自身の命を持って過失の責任を取ることに躊躇は無かった。
問題は、同僚の命だった。
『渥美格之進』にも助三郎と同じ責任が圧し掛かる。切腹は逃れられない。
助三郎はその悲劇を回避する事で頭がいっぱいになった。
「早苗だけは助けないと……」
青ざめた顔で帰ってきた助三郎を、昼寝で元気いっぱいになったクロが出迎えた。
可愛い無邪気な様子に心が温かくなった助三郎だったが、これからのことを思うと泣きたくなっていた。
すると、クロは茶屋の奥から早苗を引っ張ってきた。
妻の何も知らない穏やかな顔を見た助三郎は本当に泣きたくなった。
「どうだった?」
助三郎は早苗を強く抱きよせ、耳元で呟いた。
「お前だけは、絶対に守るから。俺が全部背負うから……」
「……どうしたの?」
助三郎は茶店の奥を借りて、早苗に事の次第を話した。
そして、帰り道に考えに考えた、最悪の事態の回避法を早苗に告げた。
「もしそうなったら、『渥美格之進』を解毒剤で消すんだ。そして逃げろ。逃げて生き抜くんだ」
すると早苗は取り乱し始めた。
「イヤ! そんなことになったら、わたしも男として死ぬ! 残してかないで! 一人にしないで!」
涙を浮かべ縋りつく妻を助三郎は説得し続けた。
「そんなこと言うな! 俺はお前に生きていてもらいたい。無駄死にして欲しくない。これは俺の責任だ。お前の責任じゃない」
「イヤ! 聞かない! 絶対聞かない! 助三郎さまが死ぬならわたしも死ぬ!」
「頼む。わかってくれ…… 頼むから……」
二人の尋常ではない様子に、クロは何が起こっているのか、戻ってきた弥七に聞いた。
弥七は手ぶらだった。
光圀の消息は不明のまま。
そこに弥七の指示で動いていたお銀も戻ってきたが、不作だった。
「弥七さん。二人はなんで泣いてるの? クロ、泣いてる顔と声、大っ嫌い」
「坊主、どこの子だ?」
弥七は人型のクロがわからなかった。
「弥七さん。犬のクロよ」
いつも落ち着いている弥七は、すんなりと受け入れた。
「そうかい。じゃあ、俺の話ちゃんと理解できるな?」
「うん」
「ご隠居が居ないんだ。探しだして連れ戻さないと、二人は離ればなれになる……」
その言葉に、クロの顔は引き攣った。
「……一緒に居られなくなるの?」
「そうだな」
クロは怖くて堪らないものを持っていた。
それは飼い主二人と一緒に居られなくなること。
早苗が精神を病んだ時、早苗は助三郎と疎遠になった。
そんな飼い主二人をどうにか戻そうと必死になったクロだったが、力及ばずで弥七に預けられた。
不安の毎日を、弥七は様々な訓練で紛らわせてくれた。
そのおかげで、様々なことが出来るようになり『賢い犬』と呼んでもらえる。
飼い主二人に可愛がって貰える。
その大好きな二人に危機が迫っている。この突然の出来事に、クロは恐怖を感じた。
しかし、傍観して助けを待つのではなく、自ら行動を起こすことを決意した。
「クロがおじいちゃん捜してくる!」
「え!? クロ、ちょっと! どこ行くの!?」
突然茶店を飛び出したクロに驚いた弥七とお銀だったが、すぐさま止めに入った。
「おい、待て! どこに居るのか解るのか?」
するとクロは強い眼差しで弥七に言った。
「クロは犬だよ。匂いでおじいちゃん探すの。弥七さん教えてくれたでしょ? 匂いを嗅ぎ分けて欲しいもの探す方法」
「そういえば訓練してやったな」
「だから、絶対探し出す! 弥七さん付いてきて!」
「わかった。頼むぞ、クロ!」
すぐさまクロに付いて行こうとした弥七に、お銀が声をかけた。
「弥七さん、わたしは?」
「二人を見張っててくれ。心中なんかしないと思うが、念のためだ!」
「わかった!」
忍びと犬が、若い夫婦を守るため、光圀捜索を開始した。