過日儚く
「……知っていますよ。そんなことは」
それは多分、何かの会議から戻る道の途中だった。
国境を隣り合う私達は、自然と帰路の殆どを同じくする。普段の彼は私と並んで歩くことなど
意図的に避けているから、どういった風の吹き回しだろうと驚いたことばかりが印象に強い。
ただ彼が唐突にそんな話題を持ち出すぐらいだから、きっと議題には今も各地で止むことのない
様々な問題が取り上げられたのだろう。それも、おそらくは過去の因縁が現代まで尾を引いている類の。
諍いの種は、当人たち以外の目から見れば意外なほどにくだらないものだ。
ずっと昔から見慣れているくせに、そのくだらなさが、その日に限って彼に何かを考えさせたのだろうか。
「貴方は昔から、物覚えだけはいいようですから。貸しも借りも、忘れるなんてことはないのでしょう」
「その通りである」
「私も、生憎と貴方に下げる頭は持ち合わせていないので。
だから、知っていますよ。貴方があのときからずっと、私を嫌いなままでいることは」
「……分かっていて悪びれないのが貴様の貴様たる所以であるな」
どちらかと言えば幼い印象を与える顔立ちを、とてもそうとは見せない鮮烈な緑。
向けられる言葉の刺々しさは常と変わらないのに、研ぎ澄ませたナイフのような光を、
けれどこの日の彼はほんの僅かに和らげていたように思う。
攻撃的なエメラルドグリーンが初夏の新緑に変わる瞬間を、ふと懐かしむ動きが私の心中に漣を立てた。
随分と昔、その変化がやけに嬉しく、待ち望んでいた頃もあったような。
……けれど今、その目に宿っていたものは、私の記憶にある色彩ともまた違う。
随分と彼に似合わない色ではあった。
「我輩は、貴様の行いを許しはせん。貴様と袂を分かったときのことを忘れようとも思わん。だが」
私の見立てが大幅に誤っていなければ、あれに似ていた。
常の言動が行き過ぎた後で、不承不承ハンガリーやドイツに頭を下げているときの、……。
「だが……」
「何ですか。貴方らしくもない。気色が悪いですよ」
「う、うるさい!」
不本意さと義務感と、幾許かの気まずさに隠れる罪悪感が彼から激しさを失わせる。だから私もまた、
いつも通りの勢いで皮肉を返すことが出来なくなるのだ。
そんなことを口に出せばそれこそ烈火の如く怒り出すのだろうから、言葉にするつもりはないけれど。
「貴様が言ったのだろう。我輩は、物覚えがいいのだ」
「……? はぁ。それが、何か」
「……だから」
「我輩は貴様のことが大嫌いである。
だが、貴様と袂を別つ前のことも……忘れようとは思っておらん。
あの日々は、今にして思えば、そう。悪くはなかった。
貴様はてんで戦いには役立たずのモヤシだったが、今も大して変わらんが、それでも……確かに」
「……………………、は」
私は。
そのときに。その寸陰に、その刹那に、私は。
どれだけ屈辱的な間抜け顔を晒していただろうか。
思わず両脚を交互に前へ出すだけの、たったそれだけの動作すら忘れるほど。
あの日々を、なかったことには、しない、と。
このひとは今、そう言ったのだろうか。
……なかったことにはしない。或いは、したくない、と?
それは、……つまりは。
私はこのとき、確かに何か言おうとした。言葉は確かに私の喉に込み上げていた。
空っぽの心で白と黒の鍵盤に向かい合うあの一瞬にも似て、後は多分、鍵盤を叩くようにして私は、
己の声帯を震わせればいいだけだったのだ。たったそれだけのこと。
懐かしい光景を思い出していた。戦いに敗れ傷ついた身体を引きずる私を、盛大に怒鳴りつけながら
いつだってちゃんと差し出されていた小さな手。けれど。
「……明日はヘルウェティアに槍でも降るのですか?」
「な……っ」
けれどそれも一瞬のこと。
私は、甘く私を誘惑する正しい言葉を故意に無視して憎まれ口を言い放っていた。
思惑の通り、見る間に赤く血を上らせる白い顔。輝きを増す緑色の閃光。
それでいい、と私は思う。安堵と共に、少しだけの寂しさと共に。
巻き戻る時間などありはしないのだ。
昔を懐かしむことが、今までかかって築き上げたものを歪ませるかも知れないのなら。
そんなものを、望むべきではない。私は……私達は。
「矢張り我輩は貴様が嫌いである! 失せろ! 今すぐ失せろ我輩の目の届く範囲から消えるがよい!
さもなくば今すぐこの場で貴様の腸を引き摺り出してソーセージにしてくれる!」
「ここまで歩いて来ておいて今更何を言っているんですか。お我慢なさい。
私の家も貴方の家も、目と鼻の先でしょうが」
「我輩の前を偉そうに歩くな! このエセ貴族!」
足早に歩き出す私の背には常と変わらぬ罵声が飛んだ。
その声だけは私があの小さな手を頼っていたあの頃からずっと変わらないもので、
それで私は、少しだけ、
……。