池田くんの恋人
そう言って、梯子に足をかけた富松作兵衛は軽々と抱えた壺を突きつけてくる。
粗野な口調とは裏腹に、両手でしっかりと壺の底を支える慎重な手つき。それを見つめながら、三郎次はどうも、と短く謝礼の言葉を口にしながら眼前にある壺を受け取った。
瞬間、両腕に想像以上の重みがかかり、思わず眉を顰めそうになる。
(……梯子に乗った状態でこれを軽々持てんのかよ)
道具用具という、比較的重たいものを日常的に扱う用具委員の委員長であることを考えればさほど不思議でもないのだろうが、それでも内心苦々しさを感じずにいられない。鍛錬を増やそうかと思案する三郎次の隣に、富松がひらりと軽やかに飛び降りた。
音も無く、まるで忍者のように(いや実際に忍者なのだけれど)着地する痩躯。
一つに束ねられている長い髪も相俟って、どこか猫を思わせる動作をこれまた見つめていると、富松は露骨に鬱陶しそうな表情でひらひらと手を振った。
「なにぼけっとしてやがる。用が済んだらとっとと帰りやがれ」
邪魔者を追い払うような仕草と共に放たれる言葉に、今度はきっちり眉を顰めて不快を露わにする。
「へーへー。どうもすいませんでしたー」
それから、相手の神経を逆撫でにすることを意識した棒読み口調でそう答えれば、富松のこめかみもまた不愉快そうにひくついた。
「……」
そんな一つ上の先輩を見て、小気味よさと同時に苛立たしさを覚えるようになったのはいつからだったか。
普段より深い皴が寄った眉間。
顰められた顔。
そんなものばかりしか見せてくれない彼に腹立たしさやもどかしさを感じるようになったのは。
「……ほんと可愛げが無いですよね、あんた」
「あ?」
不服を率直に口にすれば、可愛げどころか愛想の欠片も無いドスのきいた声が返される。
なんでこんなのが好きなんだろう。
そんなことを思いつつ、三郎次は自分のそれより少し低い位置にある唇を塞ぐように口吸いをした。
「――」
「……」
ぴくりと、視界の片隅で肩が小さく動くのが見える。
いつものように殴ろうとして、火薬壺があるのを思い出したのだろう。それを狙って仕掛けているので、三郎次としては内心ほくそえむばかりだ。このまま大人しくしていろと思いながら、目を閉じて久方ぶりに重ねた唇の感触を堪能する。
状況が状況なので、舌は入れない。
触れるだけの接吻をたっぷりと百数えるまで続けてから、そっと口を離した。
そして、目を大きく開いて呆然としている富松の顔に胸中で舌打ちを漏らす。
(顔の一つくらい赤らめろっての)
純粋に驚愕しているといった様相で、一応恋仲の相手に口吸いをされたとは思えない。
少し前まではもう少しマシな反応が返ってきたのにと。そんな不満を感じていると、不意に、壺を抱える手にそっと別の手が添えられた。
(ん?)
それに、意識がそちらの方に向く。
直後。
がつんっ
「、づ!」
前歯に強い衝撃が走った。
「っ、ぅ…!」
突然の痛みに、壺を支える手から力が抜ける。だが、三郎次の手の甲に重なるようにして他の手が壺を支えているため、大きなそれが倉庫の床に叩きつけられることはなかった。
しかし痛い。
地味に痛い。
別の手に支えられているのをいいことに、壺から手を離して前歯を押さえる。その隙に、三郎次の前歯に思いきり額を打ち据えた富松は火薬壺を持って三郎次から離れると、抱えていたそれを床に置いてからふんと鼻を鳴らした。
「おれを手玉に取ろうなんざ百年早ぇんだよ」
「…っほんと可愛げが無いな、あんた!」
「おれが可愛かったら大変だっつーの。……おら」
小馬鹿にしたように言い捨てながら、富松が何かを放り投げてきた。
反射的に受け取れば、ちゃり、と手の中で冷たい何かが硬質の音を立てる。手の中を見れば、一本の鍵が手のひらに乗っていた。
「……鍵?」
「ここの倉庫の鍵だ。……おれぁ忙しんだよ、仕事無さすぎてそんなことでいいんかいの火薬委員と違ってな。今日はもうここ使わねえから、池田、鍵かけとけ。あとでテメーの部屋まで取りにいっから」
「はあ?なんでわざわざ部屋まで……」
来るんだよ、と。
お前が取りに来ればいいじゃないかという思いと自分が所属する委員会を馬鹿にされた腹立ちとで、反射的に刺々しい声で反論しかけた口を、三郎次は途中で噤む。
なぜなら、つい先刻まで普通だった富松の顔が、明らかに色づいていたからだ。
「……」
「……じろじろ見てんな!」
「どわっ!」
思わず呆気にとられていると、耐えられなくなったのか、富松が置いたばかりの火薬壺を引っつかんで投げつけてきた。普通に危ない。三郎次は五年という歳月で鍛え上げられた反射神経と筋力を駆使して、軽いとはとてもではないが言えない壺をなんとか受け止めた。
「鍵忘れんなよ!」
その間に、声を荒げながら踵を返した富松は大股で倉庫を出て行く。
振り返りもしない後ろ姿。頭巾が無いために普段よりはっきりと見える首筋の色は至って健康的で、先刻頬を染めていた赤の余韻は微塵も見当たらない。しかし、今しがたのできごとが白昼夢の類いでないことは、忍者らしかぬ盛大な足音と、壺を受け止める時に床に取り落としてしまった鍵がしかと物語っていた。
「……」
富松の背が完全に見えなくなるまで彼が出て行った方を見ていた三郎次は、不安定な抱え方になっていた壺をいったん床に下ろすと、代わりに落としてしまった鍵を拾い上げる。
そして。
「……ああいうとこは可愛いんだよな、あの人」
ぽつりと呟いてから、その鍵を大事に懐へとしまう。
そんな彼の口元は、抑えてもなお隠し切れないほどの弛みを帯びていた。