蛍光灯の花
魔障で負傷した脚はひどく重く、まるで腐敗した大木でも引きずっているかのように感じられる。生憎、神経もいくつかやられている為か、既に「痛い」と言った物理的な苦しみはなかったけれど、だからこそ悪魔薬学を嗜む自分ではわかる。厄介な状況になっている。性急な処置が求められるだろう。
右足を引きずったまま、前のめりに体を倒すようにして用品店を目指した。不幸中の幸いは、現場から程ない距離に杜山家の店が在ったことである。手持ちの薬草だけでは心もとなかったし、何より処置にあたり特殊な薬品が欲しい。
この時間だが、無理を言って店を開けてもらおう。
出血に霞んだ頭の中で、数度となく反芻した。思考能力も鈍っているようだった。
(こんな時襲われたら、もう不運としか言いようがないな。)
雪男が自嘲的に笑うと、小さな黒い虫の様な――コールタールが視界の端をちらりと過ぎった。
平常心を自らに課し、ひたすらに歩く。蛍光灯が、彼の通った後の血で作られ黒みを帯びた道を照らしていた。
「雪ちゃん!」
荒い呼吸で嘔吐欲をもてあましていると、見馴れた少女がぽつんと立っていた。彼女もまた、蛍光灯の下で頼りなく照らされている。
柔らかなクリーム色の髪とは相対して、真っ青に顔を顰めていた。
「しえみ、さん」
「その傷……!待って、今ちょうどサンちゃんを摘んできたところだから、えっと」
わたわたと危なっかしく肘に提げた籠を漁るので、雪男の方が何か手伝ってしまいたい気にされてしまうが、しえみの元に行くにも随分時間が掛かってしまう。
それでも助けようと努めてくれている彼女を傍観するのも忍びなくて、少しずつ近寄った。辿り着くと、近所の裏山にでも月草を摘みに行っていたのだろうか。爪先の泥が気についた。
そうしてしえみも準備が出来たらしく、辺りを忙しく見回す。顔を強張らせながらも、腹から叫んだ。
「ちょっと横たわっててくれるかな」
「え、あ……でも」
そうは言っても人気がないとは言え、明らかに往来のど真ん中である。
だがしえみはこう言う時ばかりは有無を言わさぬ迫力があって、雪男は諦めて横たえた。砂利とコンクリートが混ざったような微妙な冷たさが頬の下にあった。
「うん、ありがとうっ。ちょっと大人しくしててね」
「うん、ありがとう」
ここまで来れば、後は一任出来る頼もしさもある。同じ礼をして、雪男はしばらくぶりに落ち着いて呼吸をした。しえみは手際良く薬草を数種類織り交ぜながら右足に巻いて行く。こういう調合もあるのかと素直に感嘆した。
処置を受けている間は大人しく夜空を仰いだ。未だに空は落ちてきそうなまでに重厚な色合いをしている。
「……任務、難しかったの?」
解れて来た緊張に身を委ねていると、しえみが不意に問うた。
それがいつもの、素直で朗らかで雑じり気のない声ではなかったので、雪男は口をつぐむ。答えない方が賢明だと思った。
「まあね。でも少し油断しちゃっただけだよ、格好悪いことに」
「ごめんね、そうだよね。……雪ちゃん、優秀だもんね!」
笑って呟くので、参ったなと、直観的に困惑する。鈍感で計算出来るようなタイプでないしえみが、繕っていることは見え見えだ。
内心では恐らく様々な感情が取り巻くのに、雪男が選択するのは理性的に研磨された一つであって、きっとそれも結果的に彼女を喜ばせるものでないことも悟っている。
ただ――瞼を瞑ると、壁際から顔を出したしえみが浮かんだ。出会った当時の姿だ。幼く切り添えられたボブヘアを不安そうに揺らしている。か弱く挨拶を交わしていた。
――自分は、出来たらしえみにあまり、要らぬ感情を抱かせたくはない。
雪男は口元だけ小さく笑った。処置が終わっているのを確認して身を起こす。中腰のしえみと視線がちょうど絡みあった。
「でもしえみさんだって、薬草の知識、凄いよ」
「本当?」
しえみは、ぱ、と花が開いたように笑む。本当に素直な少女だった。――こちらが申し訳なくなるくらいには、素直な子だ。
雪男は自然と脳裏に描かれた双子の兄を、頬を赤らめて爛々とするしえみに重ねた。二人はよく似ている。だからこそ、自分はしえみにも不要な想いをさせたくないのだろう。
ただ、しえみは紛れもなく少女だった。雪男はあまりに燐としえみが似通って見えたので、それを数秒の間だけ忘れていた。
だから、再びしえみを見つめた時、しえみがあまりに可憐に、あまりに花弁のように微笑んだのを、用意して受け取ることが出来なかった。
「…雪ちゃん?」
「いや、大丈夫…なんでもないよ」
「でも顔赤いよ。あれ、何か間違っちゃったのかな」
「それはないと思うから」
雪男が慌てて否定するのを、しえみはやはり鈍く頭上に疑問符を浮かべながら首を傾げた。幼さを残す動作に、思わず前髪を撫でてやると、今度はしえみが爆発するように赤面した。
これも、自分の失態だ。
雪男は非常に居心地が悪く頬を掻いた。しえみが赤面症の気があるのは知っていたのに――だが、もう一度彼女を見ると、幸せそうにはにかんでいたから何か小難しいことを考えるのが馬鹿らしくなってきて、雪男も屈託なく笑った。蛍光灯が柔らかく二人を照らしていた。