Aufheben
「分かりません」
痛むのは手首だった。縄か何かがぎりぎりと食い込んでいる。掃除の行き届いたフローリングと頬が慣れ合い始めて何時間か知れない。温む床から頬を引っぺがそうにも何やら得体の知れない肉体の脱力に襲われて、眼球だけが辛うじてのろのろと動いた。暗い。そして、黒い――黒い男がいる。
「貴方の趣味じゃないからでしょう?以前仰っていた」
「そうだねえ。俺が女の子を踏む趣味を持たないのは確かに、趣味ではないからだ」
「それ、倒錯していませんか?」
ああ、知っている。知っている部屋で、知っている顔で、そして知りたくもない状況であった。
小さな闇が好き好んで集まりそうな部屋の中の角という角に、ぞわりと反射した“好意的な悪意”が舞い上がり踊り上がって、空中で楽しげにぶつかり合ったそののちに交じる粒子の落ちてくる場所が一か所に収斂されるというのだから性質が悪い。
「先決問題要求の虚偽」
「はい?」
「まあ、何だっていいさ。俺の趣味に理性的な絵解きなんてね」
色付けするなら鈍色だ。息を詰まらせる鉄錆の臭いを限界まで煮詰め、それが終いに固形化して宙に舞い始めたとき、こんな感じになるのだろう。自らの腐敗を脳味噌の大事な所が嗅ぎ取るので、確かにそれはぞわぞわと、それでいて鼻梁から脊髄までを刹那突き通されたような直線的な不快感(と恐怖)を以ってしてこの身を弄っているのだ。
「それに問題は、……そう、今は女の子はいいや。あの子たちは踏むとうつくしくなくなる」
さぁて、と黒い影の黒い男がひょいと脚を上げた。
「男性だって、踏めばうつくしくなくなるでしょうに。表面に傷が増えます」
「それがうつくしいかうつくしくないかは」
ばすん。
頭皮から髪が数本、靴底に絡め取られて抜け去った。があんがあんと頭蓋が揺れる。狂気が揺れる。好意的な悪意が今一点に降り積もる。ばりりと罅の入る視界にありったけの憎悪を込めてみるが、三本の脚はどこ吹く風と微動だにしない。もう一本はまだ視界から消えていた。
「現物を見てから判断しても遅くは無いさ」
ホラどう?黒い男が宣った。
「……、うつくしく無くは、ないですが」
「が?」
「他人の手に依るものだと思うと、少々癪に障ります」
「執着か。良いね。うつくしさを感じるには執着心が必要だ」
「つまり私が今この瞬間にうつくしさを感じていると言いたいのですか?」
ばすん。
白い衝撃が頭の中で右へ左へ反射を繰り返し、最後に床へと吸い込まれた。いち、に、さん、そして左目の視野の大半を埋めているゴム底で四本である、それらの足の持ち主たちが繰り広げる美しさの談義にはこれっぽちも興味はない。そして等しく自由もない。
「アハハ、とっても愉快な顔をしているよ?」
もう、そんな顔するくらいならさ、という黒い男の台詞が遠のいた。ざら、と砂を含んだ靴音。
「君が踏んでみると良いよ」
――吐き気のする画だと思った。
黒い男がゆうるり腰をかがめ、少年の耳元でそっと囁いている、その画は。母のように優しげに眼を細めて、口元を朗らかに綻ばせて、一体何を。
告げられた少年は半分下ろした瞼の内側で、する、と眼球を男へ向け、またするりと正面へ戻し、耳から滑り込んだ蠢く声を明晰な脳味噌で咀嚼している様子だった。
貪欲な少年の眼球が好意的な悪意をやわやわと持て余している。さっさと形にしてしまえない分、黒い男より少年の方が幾分か人間的であった。
沈黙の中で一度瞼を落とした少年は、唇を舐めて、一歩。
「……」
一度三本に減った脚は、しかしまた四本に戻った。
「ははっ」
ぱちぱちぱち。
貧相な拍手が部屋に響く。黒い男がパフォーマンスを思わせる大袈裟な調子で手を叩いていた。ぱちぱちぱち。煩い。
「――人ひとりも踏めないなんてね、帝人くん」
鉄錆の臭いは今、二つに分かれてきな臭さを増す。少年は、そうですねえ、と相鎚を打ち、床に膝をつく。愛おしげな指先が、割れたサングラスを奪い去る様子を、静雄は変わらずのろりと見上げた。合った視線の先で少年は少し笑う。
えげつない。直感がそう告げる、何ともやさしい顔だった。
少年は立ちあがり、振り向くと男と距離を詰めた。借り物のひしゃげたサングラスを背の高い相手の鼻に乗せる。ぶわり、と部屋に広がる思惑のそれぞれが、異常な彩度を持つ瞬間に、少年は言い放つ。
「貴方だったら踏めたんですけれどね、折原さん」