白痴
その日の月は特に明るく、手を伸ばせば掴めそうなくらいに大きくもあった。月明かりが窓辺の花瓶を照らして、紫の花が月を支えている。
ロベルトは、自室の窓からの眺めが好きだった。木造の窓枠で切り取った夜空は、まるで我がもののように映る。素晴らしい眺めだというのに、自分はあの男とここで何をしているんだろう。
あの男というのは、アノン、ロベルトが苦手としている男を指す。奇抜な色の頭髪を備えていて、性格も奇想天外だ。例えるなら宇宙人とか、UMAとか、そんなもの。その態度からは彼の考えを掴むことは難しい。一般の価値観で動いていないのだろうなと思う。予測などつかない。いつもそうだし、今だってそうだ。キミに興味があるんだと、彼は言う。
「だからどうしたって言うのさ」
「僕の相手をしてくれたらいいなって」
「へぇ、おふざけが過ぎるんじゃない」
「ふざけるも何も」
元々遊びでしょ。呆れるほど簡単に出た言葉にロベルトの頭は、ミキサーで混ぜたような怒りと困惑に悩まされる。
ロベルトは、決して弱くはない。一度負けた相手とはいえ、そもそも、本気ではない相手だ。冷静に、力いっぱい立ち向かえば、その体をはねのけられないこともないのだろう。ただ、過去に恐怖を体験した体が、それを許さない。ロベルトにできるのは、口上のささやかな抵抗。なんて融通が効かないんだと自覚してはいるのだが、足先の震えは止まなかった。ロベルトの心的外傷は深い。
もうすっかり伸びてしまった襟が、ロベルトの肩から落ちた。月光が肌を濡らす。座らされた窓枠がささくれて、指に刺さりそうだった。
「こんなのが」
タダで済むとは思うなよと、言う前に顎を支えられ、唇を塞がれる。伝えられない言葉は飲み込まれて、それで終わり。息が二人の間で留まり、艶やかな温度を感じさせる。彼はその間も、薄目を開いてこちらを見つめているようだった。
「また食べちゃいたいなあ」
「あ、いやだ、やめろ」
「はは、ウソだよ」
「……っ」
彼の言葉と、口の感触に、あの空間が思い出される。あの空間では、五感がない。ぬめぬめとしているだとか、生暖かいだとか、それは、飲み込まれているときのものであり、腹の中にいたときのものではないけれど。
舌が歯列をなぞる。ぬるりとした唾液が零れる。口周りに纏わり付いたそれを彼が指で掬いとるが、それでも気持ちが悪くて、袖で何度も拭った。行儀が良いとか悪いとか、そんなことを考える余裕はない。
「人をからかうのも、大概にしときなよ」
「おかしなことを言うね。からかってなんかないのにさ」
「うるさい」
じわりと目頭が熱くなった気がして、俯いてしまった。生理的なものなのか、精神的なものなのかは、ロベルトにはわからなかった。知りたくもない。
するりと首から背中をなぞる指に、歯を食いしばる。こちらの質問に答える気はないらしい。ぎり、と軋む音がして、猫のように肩で息をしている。
この一連の行為は今日が初めてではない。現にロベルトの体には、既にたくさんの爪痕が刻まれている。仄かに赤く、中にはじわりと内出血しているものもあった。彼はいくら言っても爪を切ろうとしない。
彼は爪を立てられたロベルトが痛みに体を弾ませるたび、嬉々として、包帯をはずした額にキスを落とす。ロベルトは額を触れられるのに慣れていない。
「キミって不幸だね」
「うるさい」
悪態をつくロベルトを放って、「僕にしておけばよかったのに」と微塵も思っていない言葉を彼は吐いている。
「誰にしてるって言いたいの」
「わからないの」
不思議そうな顔をして、にゅうと口を突き出す。へぇ、と感嘆に似た息を漏らす。
「自分で考えなよ」
ロベルトは彼の言葉を聞いて、考えるまでもないと、眉間に皺を寄せてる。答えは簡単、あまりに単純明快だとでもいいたげに瞼を下ろした。
「誰も選んでなんかない」
「本当にわからないんだ」
自分のことなのに面白い人だね、と彼は心底嬉しそうに笑うのだ。
ロベルトは考える。もしや彼は、自分が答えを手にするまでこの時間を続けるつもりなのだろうかと。そしてその予測はどうやら外れていないようだった。