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小学生の頃。横断歩道は黒い部分しか踏んではいけない、と自分で勝手に決めていた。長いこと、白く引かれたラインを飛び越えて歩いているうちに、だんだんと白い部分を踏むと良くないことが起きるような気がしてきて、黒い部分以外歩けなくなった。
「おい、ニィチャン、なに見てンだよ。あ?」
街を歩けばすぐに、柄の悪そうなのに因縁をつけられる。目つきの所為か、一九〇近い長身の所為か。金髪にじゃらじゃらしいピアス、派手な格好が原因かもしれない。……別に、どれが理由であっても構わないが。
「……いや、頭悪そうな顔だなぁ、と思ってよォ」
口端を歪めるように持ち上げる。丁度いい、パチンコで有り金スって、ムシャクシャしていたところだ。
「あぁン!?」
眉間に皺寄せた小太りは、似合っていないリング状の鼻ピアスが、なんとなく家畜を思わせて笑える。いきり立つ小太りから視線を外し、ちらと周囲を窺うと、仲間らしいのは三人。まぁ、相手に出来ない数じゃない。服装からして財布の中身は期待出来そうにないが、我侭を言っていても始まらないしな、と頭の片隅で考える。
へっ、と鼻で笑ったのが、口火になった。
胸ぐらを掴もうとする腕を振り払い、顎を殴る。鳩尾辺りに蹴りを入れつつ、次。
……喧嘩は、好きだ。喧嘩をしていると、少し体温が上がって、目の覚める感じがする。
さすがにもう、横断歩道は気にせずに歩けるが、今は別の決まり事を作っていた。
『負けてはいけない』
幸いにして、陰で狂犬と綽名される程度には、暴力……身体能力と勝負勘……に恵まれている。 他の分野があまりにも恵まれなさ過ぎなのだから、これでやっとトントンだろう。
暴力! それだけが価値だ。この世界で、ただそれだけが。
負けてはいけないというルールは、横断歩道のそれよりも、ずっと強固に行動を規制する。いっそ、信仰ですらあった。踏み外せば、良くないことが起きるなんて生易しいものじゃなく、世界が終ってしまうような、気さえ。
「ふ、ざけんな、ガキがッ!」
だぶだぶしいパーカーを着た三人目に手をかけた瞬間、後頭部に衝撃が走った。
なっ、もう一人い、…………
人数を見誤っていた。鉄パイプを手にした四人目の姿を確認することなく、少年は意識を飛ばした。
瞼を開くと、視界には、見慣れぬ薄汚れた天井が広がっていた。
どこだ、ここは。
周囲を見渡そうと、身じろぎした途端、全身が軋む。思わず、息を呑んだ。
「……っつぅ……っ!」
からだ、バラけそう。
「あ、起きたか」
呼吸を堪え顔を顰めつつ起き上がると、煙草を片手に黒いスーツの男が声をかけてきた。顔立ちとしては割に整っている部類だろう。薄い唇が、酷薄そうな印象を与える。
「お前、ウチの会社近くの路地にぶっ倒れてたから拾ってきたんだけど。何、喧嘩?」
興味津々といった風情。部屋にはいくつかデスクが並んでいるから、ここがその会社とやらなのか。どうやら、ソファの上に寝かされていたらしい。見れば、ご丁寧にガーゼやら包帯やらで手当までされている。
「……売られた喧嘩買ったら、思ってたより人数多かった」
「ハ、そりゃ、ご愁傷さま」
男の右頬、目の下には、切創があった。大きく深く刻まれたそれは、目を細めた拍子に引き攣れる。格好も雰囲気も、真っ当な社会人には見えなかった。
「あ、ところでお前、家とか親は? 連絡しとこうか」
思い出したように投げかけられた言葉に、眉根を寄せる。要らぬ気を回す男に辟易とした。薄暗い世界の人間のくせに、マトモぶりやがって。何が親、だ。
「ねえよ、そんなもん」
ぶっきらぼうな答えに男は、ほぅ、ともへぇ、ともつかない声を発した後、一瞬考えるような仕草を見せ、向き直った。
「俺、早乙女っつって、一応会社やってんだ。いわゆる貸金業」
「……あー、闇金ってやつ?」
関わる気はなかったのに、何故か尋ねてしまった。どうしてそう思った? との問いに、コレ、と己の右頬、ちょうど早乙女の疵がある辺を指し示す。
「どう見たってカタギじゃねえだろ。……それとも、ハク付けのために自分でやったとか、そーいうの?」
「! バーカ、ンなワケあるか。この疵さえ無きゃ、逆玉乗り放題なのに」
何がツボに嵌ったのか、一頻りケラケラと笑う早乙女。笑いが収まると、目尻を拭いつつ、お前、名前は、と聞いてきた。
「…………」
一瞬口を開きかけたが、どうにも、答える気がしなくて押し黙る。本能の警鐘。目の前にいるのがどのくらいヤバい奴かを見極める能力は、街で生きるための必要条件だ。先刻はうかうかと軽口を叩いてしまったが、本来ならあまり関わりを持たない方が良い種類の人間だろう、この男は。
数瞬の沈黙の後、
「まぁ、名前なんざどーでもいいさ。居たきゃ好きなだけ居ろよ。行き場所無いなら、お前さえ良けりゃ雇ってやっても良いぜ。今、ちょうど人手足りねえし」
特に気にした風でもなく早乙女はヘラヘラと笑って、仕事に戻った。早乙女の言葉に、一瞬、ぎょっとなったが、何に驚いたのか自分でもわからない。
早乙女に言われたとおり、というのはいかにも癪だが、特に行き場所は無かった。かといって、会社とやらに居たってすることも無い。早乙女がコンビニで買ってきたスパゲティを食べた後は、ソファに寝そべりダラダラとしていたのだが、扉の開いた気配に、半ば無意識に上半身を起こす。
「うーっす、高田の分、利子だけですけど回収してきました」
部屋に入ってきた男に応じ、書類作成につきっきりだった早乙女は顔を上げた。
「おう、鷲尾。おかえり」
「あー、もう、疲れた。やっぱ本質的に俺、外回りって向いてないですわ」
鷲尾と呼ばれた男が、顔を顰めてネクタイを緩める。
「ご苦労さん。それにしても、やけに遅かったなぁ。……高田って、確かアイツ、前に行方眩ましてたことあったろ。跳ばれたのかと思って心配してた」
「最近また、コソコソ何かやってるみたいだから、気をつけてた方がいいかもしれませんね。実家の住所とか、一応確認しておいた方が良いかも……」
言いつつ、鷲尾は事務所奥のソファに腰を下ろしている場違いな少年を見とがめ、首を傾げた。
「社長、何ですか、このガキ」
あぁ、と早乙女はちらとソファの方に視線をくれ、得意げに口角を吊り上げた。
「犬、拾ってきたんだ。狂犬」
「狂犬て…………へぇ! これが、あの」
鷲尾が目を丸くする。
「話には聞いていたけど、こいつが狂犬、ねえ。ふーん」
頭のてっぺんから爪先まで、不躾な鷲尾の視線を感じて、眉間の皺を深くした。
どうやら、想像以上に自分はユウメイジン、らしい。