落ちる葉のように
私はいつものように豪奢ながら繊細な模様のティーカップを用意し、お揃いの柄のポットから紅茶をそそいだ。湯気が昇り、淹れたての紅茶の香りが辺りを漂う。紅茶の入ったカップをゆっくりと慎重に持ち上げ目の前の男に差し出した。
紅茶を出された男―屋敷主の息子であり私の主人である涼宮様は、読んでいた新聞をたたみ、ティーカップに手を伸ばす。私のものより一回りも大きい手が取っ手を掴み、口元へ紅茶を運んでいく。
私はいつもこの瞬間緊張する。
年こそ同じであるものの、彼と私の身分は天と地ほどの差があった。彼は私に何も言わない。美味しいとも、不味いとも、今日の天気はよいですね、とも。何も言わないので、私はただ指定された茶葉を淹れることしかできないのだった。
「今日のスケジュールは」
「はい、正午に先方との食事会と午後の会議だけです。」
「そうか」
そう短く答えると、彼はまた新聞を開き今日の出来事を頭に入れはじめた。本当に興味があるのだろうか、表情はぴくりとも動かない。もしかしたら仕事上の義務感だけで読んでいるのかもしれなかった。彼から少し離れたところに立って、彼の世にも珍しい端正な顔立ちを眺めてはそんなどうしようもない想像をしてしまう。じっと見てはいけないとわかっていても、彫刻のように整った彼のおもては見とれるに十分値する代物だった。
「お前は」
思わずビクリと体がはねた。それは彼の下について数ヶ月目にして初めての、私に対する私語だった。
「はっはい、何でしょう」
上ずりそうになる声を必死になだめて返事をする。
「新聞は読むのか?」
「あ……いいえ、その。文字を読むのは苦手で……」
そう答えると彼はびっくりしたようにこちらを見た。もしかしたら彼と真っ直ぐ目を合わせたのは初めてかもしれなかった。
「この屋敷のメイドは、活字も読まないのか。」
「ええと、申し訳ありません、簡単な文字は読めるのですが……」
「はぁ、なるほど。十分な教育を受けてないってことだな?」
「は、恥ずかしながら……」
きっと私の顔は真っ赤になっていたはずだ。この屋敷を継ぐため日々経済や国政を学び着実に成功者としての道を歩む涼宮様の目の前に立っているのは、民間の出で学業もまともに受けて来ず、やっとこの職に就いた私であった。同い年である彼と私のこの落差を誰かに比較されているような気がして、思わずこの場から逃げ出したくなる。そうだ、私と彼は同い年なのだ。その事実が余計に私を責め立てる。
つまるところ私は、彼にどうしようもなく憧れていたのだ。その裏に劣等感を隠しながら。それが今、浮き彫りにされていく。
この羞恥が過ぎ去るのを待つように、私は下を向いて押し黙った。
「俺はお前が自分の仕事さえしっかりしてくれれば構わないけど。」
「……はい、涼宮様。承知いたしました。」
突然彼の腕が私に伸びた。驚いて一歩下がろうとしたが間に合わず、彼の大きな手が私の手首を掴む。力強く引っ張られ、私はバランスを崩し思わず膝をついた。
「い、痛い」
「この屋敷に涼宮は三人いる。ハルヒコでいい。お前、下の名前は何だったっけか。」
「きょ、恭子です、涼宮様、手首が」
「何?キョン子?」
変な名前だなぁと呟いて彼は手首を掴んでいる手の力を少し弱めた。それでもまだ痛い。
私は突然のできごとと手首の痛みに心底驚き、かろうじで出した声はかすれていた。キョン子、私はそんな名前じゃない。
「こうして見るとお前の髪、深い茶色だったんだな。黒だと思ってた。」
「は、そうでしょうか……あの、手、離して下さいませ」
「お前が人と話しているとき俯くからだろ。いつも俯いていた。絨毯を眺めるのが好きなのか?そのくせ人が新聞を読み始めるとじろじろ見てくる。」
「そ、それは」
「いいか、人と話すときは目を見ろ。顔ならそのとき観察すればいい、減るもんじゃないしな。それと涼宮様と呼ぶな。親父との違いがなくてややこしい。」
「……承知いたしました。」
やっとのことでそう答えると、私の手首は開放された。掴まれていただけなのにじんじんと痛む。ものすごい腕力だ。
「今日はもう下がっていい。」
「はい。……その、すみませんでした。私……」
「謝るほどのことでもねぇよ。」
そう言われると、もう私に弁解の余地はないのだった。彼は私がいつも俯いていたと言った。この数カ月、私が彼を見ていたように、彼も私を見ていたのだろうか。あの新聞を読む無表情の水面下で……そう思うと無性に恐ろしかった。
ティーカップを下げて部屋を出、ドアを閉めてからやっと安堵のため息を付くことができた。廊下にはいつになく冷たい空気が漂っていて、いよいよ冬も近いように思える。
私は身震いをして、未だ残る彼の手の感触をかき消すように、そっと手首を撫でた。