【腐】Instead
その時はそれ以上の感情なんてなかった。ただ、印象を言ったまでだ。
本当にそう思っただけだった。
「三神先生のこと……どう思う?」
そう、顔を赤らめながら聞いてきた彼に対し、正直な所“変な奴”と思いもした。だって、三神先生は俺らよりも十何歳も年上だ。美人ではあるが、クラスメイトとか、所属している美術部の子とか、他にもいるだろうと思った。
でも彼は本気で三神先生のことを好いていた。
何日か学校を休んでいた三神先生のことを心配して、わざわざ様子を見に家の近くまでくるくらい、彼は三神先生を好いていた。
「榊原くんもきょう、休んでたし」
ぼくの心配をしている様に本人は話していたが、“も”と言っている辺り、本心が隠しきれなかったと見える。
それでも、少しはぼくの心配もしてくれていたんじゃないかと、思う。
だってあの時、はっきりとは言わなかったとはいえ、話してくれたじゃないか。クラスの決め事を破ってまで、名簿とメッセージをくれたじゃないか。
そんな危険を犯してまで親切にしてくれた彼を、気になり始めたのはいつだったか、そんなこと覚えていない。
なんせ<もう一人>に関する全ての情報は消えてしまいつつあるのだ。<もう一人>に関わったぼくたちの、感情の何かも消えてしまいつつあるのかもしれない。
ぼくはそう思うことにしていた。
いつからか、なんて大した問題じゃないんだ。
これから、どうなるかが問題なんだ――――。
「榊原くんを見ていると、時々泣きたくなってくるんだ。…変、だよね……」
そう言った時も、彼は目に涙を溜めていた。
潤んだ瞳は、彼は僕を――僕の中に見えている三神先生を、怜子さんを――見つめていた。
ああ、彼は本当に怜子さんが好きだったんだな。
彼の瞳がぼくを抉る。
<もう一人>だった怜子さんの記憶は、あの事件から数日経った頃にはもう、すっかり彼の中から消えていた。
だから、彼の怜子さんへの想いも当然消えたのだろうと思っていた。
「幽霊ってさ、本当にいるんだって。想いってものすごいエネルギーを持ってるでしょう?そのエネルギーがね、エネルギーだけがね、残って幽霊として存在しているんだって」
鳴があんなことを突然言い出した時、何を言っているのかとわからなかったが、今ならわかる。ぼく自身が気づいていなかったこの気持に、鳴はとっくに気づいていたんだろう。
「痛々しいわね、榊原くんも、彼も…。これも災厄の被害のひとつなのかしらね」
興味があるのかないのかわからないような声で、どこか遠くを見て、鳴はそう言った。
「なにす…んっ…」
望月がうちに遊びに来たある日のことだった。
ふいに会話が途切れ、彼がまた、あの時と同じような瞳でぼくを射ぬく。
しばらく動かずにただぼくを見つめていたかと思うと、おもむろに近づいてきて、唇を奪われた。
「どーして?レーちゃん。どーして?」
遠くから九官鳥レーちゃんの声が聞こえた。
「どうしてだろうね?どうして僕は、榊原くんにこんな感情を抱いているんだろう?ぼくも、わからないんだよ。ねぇ、榊原くん、どうしてなんだろうね?」
「どーして?どーして?」
どうしてかなんて、言えるわけがないだろ。もし言ったとしても、わからないままだろ?怜子さんに関する記憶がない今、そんなことを話したとしても、信じないだろう?
瞳に湛えられた涙が、彼の白くて透き通ったような頬を伝う。
美少年が流す涙も、涙を流す美少年も、とても美しくて、こんな時なのに目を奪われてしまう。
どーしてかなんて、ぼくに言わせないでくれ。
その、ぼくを見ているんじゃない瞳で、ぼくを見ないでくれ。
「ねぇ…なんで泣いているの?」
「きみだって、泣いてるだろ」
ぼくが?ああ、ほんとだ…気づかなかった…と笑う彼は、儚げで、できることならぼくが抱きしめてあげたかった。
抱きしめるくらいなら許されるだろうか?
怜子さんの代わりのぼくでも?
「榊原くんの肌に触れたいと思ってしまうの。榊原くんに触れて、榊原くんの乱れた姿が見たいと、思ってしまうの…。本当に、どうしてなんだろうね?」
ポロポロと溢れる涙が、彼のシャツを濡らしていく。
ごめん、ごめんね――と繰り返す彼に、ぼくは何ができるというのだろう?
「きみのせいじゃないさ。きみも…被害者なんだから…」
後半の言葉はほとんど声になっていなかった。
「えっ…?」
「なんでもないよ。なぁ、望月?」
「うん?」
ぼくを抱きしめている彼の顔は見えない。けれど、シャツに感じる冷たい感覚から、きっとまだ泣いているのだと思う。
「ぼくは望月が好きだよ」
これは本当のこと。望月が好きだ。
感じていたぬくもりが離れる。
びっくりして見開いた目が、細くなって、彼は笑った。
「ありが…とう…」
笑っていてもなお、彼の瞳から涙は消えてくれなかった。
「ぼくもね、榊原くんのこと、好きだよ。ふふ、今更だよね。言われてから気づいたみたい。ぼく、榊原くんのことが好きなんだ。だから触れたいと思うんだね」
それが本心から言っているのか、本心を隠して言っているのか…おそらく本人は本心だと思っているのだと思う。でもぼくは知っている。それは、きみの本心じゃないんだよ、と。
今はそれでもいい。
ぼくが代わりになれるなら、それできみの傷が癒えるのなら、ぼくは代わりで構わない。
いつか、ぼくも怜子さんの存在を忘れてしまう。その時には、ぼく自身を見てくれるようになっているといいなと思う。
だってその時のぼくには、きみの涙の理由がわからないから。わかってあげられないから。
「榊原くん、好きだよ」
「うん。ありがとう」
ぼくたちはもう一度、口づけを交わした。
本心と本心だと思っている想いを込めて―――。
作品名:【腐】Instead 作家名:涼風 あおい