汚れたスパイク
「それ買ったのか。俺も目ェ付けてたよ」
イコール、良い買い物したな、と。つまりはそういうことなのだろう。阿部はいつでも分かりにくい奴だった。
紐をぎゅと縛って、とんとんと踵をしっかりと靴の中へ入れる。うん、履き心地が良い。だから買ったのだ。断じて、阿部がそうであるように己の眼力だとか知識だとか、そういうアバウトな感情で買ったわけではない。
(違うな、アバウトか。)
ところでお前何か用? と阿部に尋ねると、阿部は一瞬きょとんとして、それから「お前ヒマそうだったから、グラ整頼もうとしてたんだよ」と言う。少し首を傾げると、マウンドの真ん中あたりに水溜りになってぐちょぐちょになっている所があるらしいと阿部は答えた。ああそうか、昨日雨だったもんな。
「つうか、何で俺なの」
「さっき言ったろ」
「いや靴ならしてたじゃん」
「俺には暇そうに見えたんだ、悪いな」
阿部はくるりと向きを変えて、トンボとスコップが立てかけてある用具置き場の方へ歩き出した。少しばかり水を含んだグラウンドへスパイクがぐさぐさと刺さって、ああ汚れた、なんて思ったけど、むしろ汚す用途の為に買ったのだから、と気にせずそのまま阿部を追いかけた。
リヤカーに砂を少し積んで、ぐちゃぐちゃになったところに掛ける作業を繰り返していたら、スパイクはすぐに汚れてしまった。所々白くて、泥のべちゃっとした塊がくっついていて、何とも新品には思えない。
じと視線を足元に下ろしていると、カラン、という金属の音がして、見上げた先に阿部の顔があった。
「それ、汚えな」
思わずカチンときて、逆光で薄暗くなっている阿部の顔を睨み返すとそれは厭らしく笑った。我がチームの参謀はこんなにも歪んで笑うのだ。そうだこいつはこういう奴だと目を瞑って、ぱちりと開けて、それから言う。
「いつか汚れるもんだろ。スパイクだし」
「そうだな、いつかは」
「汚れたら洗えばいいんだよ」
「ハハ、お前らしい」
ふ、と阿部はいきなり笑う。どきりとして、悟られないようトンボをひいた。阿部の前を通過しかけたとき、急に右足に痛みが走る。痛い! そう叫べば阿部はまたニヤリと口元を吊り上げて笑った。阿部の足はぐりぐりと俺の右足を踏みつける。スパイクの底がぐさぐさとして、俺の心臓を貫いた。
「…ッ、いてえつってんだろ、馬鹿、死ね、アホ」
「お前も大概言葉遣い悪いよな」
「っいい加減にしろ! 阿部!」
「ああハイハイ」
トンボを持っている手を離して阿部に殴りかかろうとすると、パシといとも簡単に拳を包まれてしまった。トンボはカランカランと地面に倒れる。拳を握りこんでくる手に力は入っていなかった。(なんで、)右手を凝視していると、右足の上から重さがふっと消える。
「俺が最初に汚してやりたかったんだよ」
阿部を見たら、その大きな瞳がこちらを覗いていて、どこまでもどこまでも視線が食い込んでくるような気分になった。汚れたスパイクは相変わらず地面を刺して、ずぶずぶと沈む。地面の水溜りはきれいになくなっていた。