ひめごと
まるで魚のように白い波間を泳いで、まるで藻掻くように白い波間に溺れる。
幾度となく重ねても、慣れることはない行為。
そこに、愛は存在してはならない。
あるべきは、ただ獣のような本能だけだ。
貪り喰らい尽くすような激しさだけが、すべて。
「―っ…!」
大柄な男に組み敷かれた細くしなやかな背が、固く強張る。
乱れた敷布に顔を押しつけたままに、喘ぎを噛み殺す姿は、一層に男の劣情を煽った。
「おや、イタチさん…もう限界ですか?」
動きを止めて、それを嫌うことを知りながら、揶揄するような声で男が問う。
すかさず、射るような漆黒の双眸が、肩越しに男を見つめた。
組み敷かれて尚も強い意志を放つ瞳に、男は得も言われぬ興奮が己の身を支配するのを感じてしまう。
いつも深淵を見つめている瞳は、今だけは彼だけのものだからだ。
獰猛な獣のように笑うと、男は再び動き始めた。
二人が、こうして関係を持つようになったのは、もう随分と前のことだ。
男―干柿鬼鮫は、今でもその時を鮮明に思い出すことが出来る。
いつからか、彼を愛していた。
日に日に積もる愛しさと、そしてもっと深く触れ合いたいという欲求。
だが、それをしてしまえば、互いを支える関係さえも崩れてしまいそうで、恐ろしかった。
劣情を抱きながらも、手を伸ばすことが出来ず、ただ見つめるだけの日々。
それを、今、抵抗もなく組み敷かれている彼が、崩した。
「………え?」
正直、どう答えていいのか反応に困ったというのが正解だろう。
その音はそれこそ何の躊躇いもなく耳に届いた。しかし、脳がそれを上手く処理できなかった。
それは、目の前にいる彼とその言葉とが上手く摺り合わせられなかったからに違いない。
目を剥いたまま、黙り込んでしまった鬼鮫を、イタチは喉の奥で笑った。
意地の悪そうな笑いだ。
すっかり固まってしまった鬼鮫を他所に、イタチは一頻り笑うと、何事もなかったように漆黒の双眸で、鬼鮫を射た。
「嬲るように、見つめておいてそれか……笑わせてくれる。抱きたいのだろう?オレを。……ならば、抱けばいい」
はらりと落とされた外套。現れたのは、服を纏っていても尚、細くしなやかな体躯だ。
知らず、ごくりと鬼鮫の喉が鳴った。
手を伸ばせば届く所に、己を満たすものがある。
餓えた心は、それを求めていた。だが、理性がそこに疑問を投げかける。その手を伸ばしていいのだろうか、と。
どこかに、綻びを探してしまう。情けない逃避の道を。
イタチはそれを察してか、挑発するように目を細めて笑う。
妖艶な微笑。
「別に大したことではないだろう?ただの性欲処理だと思えばいい」
すっと伸ばされた手が、鬼鮫の頬を撫でた。
触れ合う肌からじんわりと熱が伝わるのに、心は冷えた。
「……貴方は、それでいいのですか」
押し殺した声にもイタチは怯まなかった。
端正な顔が、ゆっくりと近づいてくる。
唇が触れるか触れないかの距離で、囁かれた言葉は、情欲を煽るには十分だった。
* * *
あれから、幾度となく行為を重ねたが、イタチの真意は読めなかった。
行為を終えて、荒く息を吐く背中が痛ましい。
細く白い背に覆い被さっていた体を、鬼鮫はすっと避ける。
俯せになり、何かに耐えるように顔を敷布に押しつけていた体から重みが消えたことを、訝しく思ったのだろう。
イタチは、鬼鮫を振り返ろうとした。それよりも早く、鬼鮫はイタチの体をくるりと反転させた。
気怠げな息を吐く彼は、それでも懸命に瞼を持ち上げて、鬼鮫を見る。
「……どうした?」
それはどこか縋るように見える。
誘われるように、鬼鮫は噛み付くように口付けた。荒々しく貪れば、体は再び熱を帯びて、兆してくる。
うっそりと目を閉じるイタチは、全てを許容していた。
鬼鮫は、活き活きとして、この波間を泳ぐ。
そうして、波間で藻掻くイタチを捕らえて離さない。
向かってしまえば、まるで睦言を囁き合う恋人同士のようだ。
これは、片方が欲したが故でなく、互いに望んだ行為。
現実という鋭い牙を、鬼鮫はいつもイタチに突き立てる。
その偽らざる事実に、イタチの心が痛んだ。
心が触れあえないのならば、せめて体だけでも交わりたかった。
ただそれだけのはずであったのに、心はどこまでも貪欲に求めてしまう。
溺れた者が藁に縋るような想いで、再び覆い被さってくる体を受けとめた。
その手は、荒々しいのに、どこか優しい。
彼だけが、この世界からすくい上げてくれるような気がして。
けれど、それが夢でしかないことをイタチは知っている。
これは、ただ欲を満たすための行為。それ以上などあってはならないのだ。
解っているというのに、触れ合う度に、いつもその境界は曖昧になる。
熱く昂ぶった体から伝わる温度は、じわりじわりとお互いの熱を侵食していく。
触れ合った肌が溶けて混ざるような気さえして、心が歓喜に打ち震えた。
いっそのこと、何もかも解らないほどに、混じり合えたのならば幸せなのだろう。
震える心を抑えつける殻を破って、その心さえも深く繋がることができたのならば。
「―っ……あ」
覆い被さってくる大きな体が、酷く歪んでいた。
涙で滲む視界の理由など、鬼鮫は知らないだろう。
こぼれ落ちそうになる愛しさを噛み殺すようにしながら、唇を噛む。
何度もそうしてきた。
それは、イタチにとって譲れない最後の一歩だった。
何かを伝えることなど許されない。
ただ感じ合う熱だけが互いの全てで、その肌の下に隠された心は互いの秘密だった。
(生きたい……叶うことならば、お前と共に)
その大きな背に縋り付くようにしながら、願う。
それは、決して口に出すことの出来ない望み。そして、決して叶うことのない望みだ。
互いに深く交わりながらも、互いに心を交わすことはない。
虚しくて、かなしい交わりだけが、二人にとってはお互いを感じる全て。
昂ぶった熱を解放すると同時に、今度こそ、イタチは意識を手放した。
Fin