名前
その日。
お座敷に呼んでくれた慶喜さんに一通り芸を見せた後、私は慶喜さんに質問をぶつけてみた。
それは慶喜さんがあの徳川慶喜だと知ってからずっと、不思議に思っていたこと。
慶喜さんのお猪口にお酒を注ぎながら、息を吸う。
「慶喜さん」
「なんだい?」
「ずっと聞いてみたかったことがあるんですけど…」
慶喜さんはお猪口を運ぶ手を止めるとわざとらしく瞬きをしてみせた。
「え?俺がお前のどんなところを可愛いと思っているかとかそういうこと?」
話の腰を折るような茶々に私の口調は自然と小さな非難を含む。
「違いますよもう…。
あの、慶喜さんは秋斉さんや新選組の皆さんにも"けいき"さんって呼ばれてるじゃないですか」
今度は慶喜さんの眉が八の字になる。
「そうだね。一橋殿とは誰も呼んでくれないよね」
「いえあの、苗字のことではなくて…」
「うん?」
慶喜さんのやさしげな目を見ながら、やっと質問を伝える。
「私も翔太君も慶喜さんの名前は"よしのぶ"さんと読むって教わったんです。でも、ここでは慶喜さんとお付き合いのある人たちはみんな、"けいきさ"んと呼んでいて、誰も"よしのぶ"さんとは呼ばないから、どうしてなのかなと思って…」
慶喜さんは一瞬だけきょとんとした表情を見せたけれど、すぐに何事もなかったみたいな顔をしてクスリと笑った。
お酒を口に含んで一息ついてから、おもむろに口にされた感想は、
「嬉しいね。お前が俺の名前をこんなに気にしてくれて」
だった。
急にそんなこと言われてもどう返せばいいのかわからくて私は畳に目を落とした。
視界の外で慶喜さんが笑みをこぼす気配がした。
「どうしてと言われてもねえ、元服したからとか家督を継いだからとしか言いようがないんだけど…」
「元服したから…?」
元服するとどうして名前の読み方が二通りできるのか。
さっぱり意味がわからず私が首を傾げていると、慶喜さんは愉快そうに声をあげた。
「お前がすぐに理解できないということは、未来では元服したり家督を継いだからという理由で呼び方を改めることはないのかな」
…なんだか難しい話になりかけてるのかな?
私はますます困惑しながら、だけどわかることだけでも伝えたいと思って口を開いた。
「ええと…。まず、未来では元服という習慣がなくて…」
お猪口を運ぶ慶喜さんの手が、持ち上げられかけたところでぴたりと止まる。
「…そうなの?」
信じられないというように目を瞠る慶喜さんの様子に、私はまずいことを言ってしまったのかもしれないと思い、顔の前で慌てて左右に手を振った。
「いえ、あの…!元服はしませんけど、大人にならないわけじゃなくて…!
元服って子供から大人になること…で、合ってますよね?
あの、代わりのものはあるんですけど、ええと、成人式といって、それ以降はお酒を飲んでも良くなったりとか、他にも子供はしてはいけないことをしてよくなったりとか…。
でも、名前が変わったりというのはなくて…」
私のしどろもどろの説明で慶喜さんにちゃんと伝わるんだろうか。
不安だったけど、慶喜さんは中途半端な位置に止まっていたお猪口を持つ手を下ろすと、少し考えるような仕草をした。
座敷の外からは秋の虫の声。
りーりーと鳴いているそれはいったい何という名前の虫なんだろう。
頭の片隅をそんなことが一瞬だけ過る。
私の意識があさっての方へ行く前に、慶喜さんは口を開いてくれた。
「藍屋に、吉野太夫という芸妓がいたことはお前も知っているね」
私と顔が似ているという太夫のことだ。
唐突に出てきた名前に面くらいながらも私は小さく頷いた。
「たとえばその吉野太夫だけど、彼女だって生まれたときから吉野と名乗っていたわけじゃあない。
生まれたときには別の名前があっただろうし、禿や、振袖新造の頃にはまた別の名前だった。
それはとても自然なことだよね。
そういうことなら、心当たりがあったりはしないかい?」
少なくとも家族や友達にはそんな人はいない。
首を左右に振ろうとしたとき、ふと思い出した。
「そういえば…。
歌舞伎の役者さんは、偉くなると名前が変わったりするみたいでした」
映画やテレビドラマで有名な歌舞伎役者がある日突然違う名前になることはある。
テレビのニュースで取り上げられているのを見たことがあった。
それを襲名する、と言うらしい。
タイムスリップする前の私の生活には襲名なんてまったく無縁だったけど、太夫を目指すことになった今の私にはあながち無関係なことでもない。
これからの頑張りとその成果によっては、顔の似ている吉野太夫の名前を継ぐ話が出るかもしれないことは、菖蒲さんから聞かされていた。
私の答えに、慶喜さんがお猪口を置いて穏やかに微笑む。
「そうそう、まさにそれだよ。
役者は名前に見合う芸を身に着けたり、その名前に見合う芸を目指すために名前を変える。
俺の場合もそんな感じ。
一橋家を継いだ後、時の上様から一字を頂戴して…」
慶喜さんの指が宙を滑る。
指で示されたのは"慶喜"の文字。
いたずらっぽい瞳をして慶喜さんは続けた。
「でもね。
この名前で呼ばれることというのはあまりないんだよ」
「え?」
「俺の名前が慶喜であること自体、市井の人は知らないからさ」
その慶喜さんの言葉が、私にはあまりピンと来なかった。
それはもちろん、テレビも新聞もない時代だから、一橋慶喜が実際にこんな顔だと知っているのは直接の知人以外にはいないのだろう。
でも、慶喜さんは幕府の中でもかなり身分の高い有名な人だと思う。
有名人なのに、名前を知られていないなんてなんだかおかしい気がした。
私がいつまでも腑に落ちない顔をしているので、慶喜さんは微苦笑を浮かべて言葉を重ねた。
「ここを出れば皆、普通は一橋殿と呼ぶからね」
「あ…」
お前はあまり聞いたことがないかな、と、慶喜さんは笑って付け足した。
「もっとも、ここでそう呼ばれないことはかえって都合がいいんだけどね。
町の人たちに俺が往来をふらふらしていることに気づかれてしまったら大混乱だよ」
冗談めかして言うと慶喜さんは澄ました顔でお猪口を手に取った。
慌てて私が徳利を手に取るとと、慶喜さんはにっこり笑ってお猪口を差し出してくれた。
でも…。
「それなら、慶喜さんの本当の名前は、"よしのぶ"さんなんですか?
"けいき"さんなんですか?」
ほんの一瞬。
見間違いかと思うくらいの短い間、慶喜さんの瞳に戸惑いの色が浮かんだ気がした。
でも、すぐに慶喜さんはからかうような表情で逆に問い返してきた。
「どっちだと思う?」
「えっ…」
質問で返されるとは予想していなかったので言葉に詰まってしまう。
考えてわかる類のことでもない。
助けを求めて慶喜さんの顔を見ても、ヒントをくれるつもりはないみたいだった。
外からは相変わらず虫の声が聞こえる。
迷った挙句、私はこう答えた。
「どっちが本当かは、わかりませんけど…。
けど、私が慶喜さんに教えてもらった名前は"けいき"さんですから。
だから、これからも"けいき"さんって呼んでもいいですか?」
少しの間をおいて、慶喜さんの表情がふっと緩んだ。
慶喜さんはお猪口を手放すと、空いた右手を私の左頬に伸ばす。
お座敷に呼んでくれた慶喜さんに一通り芸を見せた後、私は慶喜さんに質問をぶつけてみた。
それは慶喜さんがあの徳川慶喜だと知ってからずっと、不思議に思っていたこと。
慶喜さんのお猪口にお酒を注ぎながら、息を吸う。
「慶喜さん」
「なんだい?」
「ずっと聞いてみたかったことがあるんですけど…」
慶喜さんはお猪口を運ぶ手を止めるとわざとらしく瞬きをしてみせた。
「え?俺がお前のどんなところを可愛いと思っているかとかそういうこと?」
話の腰を折るような茶々に私の口調は自然と小さな非難を含む。
「違いますよもう…。
あの、慶喜さんは秋斉さんや新選組の皆さんにも"けいき"さんって呼ばれてるじゃないですか」
今度は慶喜さんの眉が八の字になる。
「そうだね。一橋殿とは誰も呼んでくれないよね」
「いえあの、苗字のことではなくて…」
「うん?」
慶喜さんのやさしげな目を見ながら、やっと質問を伝える。
「私も翔太君も慶喜さんの名前は"よしのぶ"さんと読むって教わったんです。でも、ここでは慶喜さんとお付き合いのある人たちはみんな、"けいきさ"んと呼んでいて、誰も"よしのぶ"さんとは呼ばないから、どうしてなのかなと思って…」
慶喜さんは一瞬だけきょとんとした表情を見せたけれど、すぐに何事もなかったみたいな顔をしてクスリと笑った。
お酒を口に含んで一息ついてから、おもむろに口にされた感想は、
「嬉しいね。お前が俺の名前をこんなに気にしてくれて」
だった。
急にそんなこと言われてもどう返せばいいのかわからくて私は畳に目を落とした。
視界の外で慶喜さんが笑みをこぼす気配がした。
「どうしてと言われてもねえ、元服したからとか家督を継いだからとしか言いようがないんだけど…」
「元服したから…?」
元服するとどうして名前の読み方が二通りできるのか。
さっぱり意味がわからず私が首を傾げていると、慶喜さんは愉快そうに声をあげた。
「お前がすぐに理解できないということは、未来では元服したり家督を継いだからという理由で呼び方を改めることはないのかな」
…なんだか難しい話になりかけてるのかな?
私はますます困惑しながら、だけどわかることだけでも伝えたいと思って口を開いた。
「ええと…。まず、未来では元服という習慣がなくて…」
お猪口を運ぶ慶喜さんの手が、持ち上げられかけたところでぴたりと止まる。
「…そうなの?」
信じられないというように目を瞠る慶喜さんの様子に、私はまずいことを言ってしまったのかもしれないと思い、顔の前で慌てて左右に手を振った。
「いえ、あの…!元服はしませんけど、大人にならないわけじゃなくて…!
元服って子供から大人になること…で、合ってますよね?
あの、代わりのものはあるんですけど、ええと、成人式といって、それ以降はお酒を飲んでも良くなったりとか、他にも子供はしてはいけないことをしてよくなったりとか…。
でも、名前が変わったりというのはなくて…」
私のしどろもどろの説明で慶喜さんにちゃんと伝わるんだろうか。
不安だったけど、慶喜さんは中途半端な位置に止まっていたお猪口を持つ手を下ろすと、少し考えるような仕草をした。
座敷の外からは秋の虫の声。
りーりーと鳴いているそれはいったい何という名前の虫なんだろう。
頭の片隅をそんなことが一瞬だけ過る。
私の意識があさっての方へ行く前に、慶喜さんは口を開いてくれた。
「藍屋に、吉野太夫という芸妓がいたことはお前も知っているね」
私と顔が似ているという太夫のことだ。
唐突に出てきた名前に面くらいながらも私は小さく頷いた。
「たとえばその吉野太夫だけど、彼女だって生まれたときから吉野と名乗っていたわけじゃあない。
生まれたときには別の名前があっただろうし、禿や、振袖新造の頃にはまた別の名前だった。
それはとても自然なことだよね。
そういうことなら、心当たりがあったりはしないかい?」
少なくとも家族や友達にはそんな人はいない。
首を左右に振ろうとしたとき、ふと思い出した。
「そういえば…。
歌舞伎の役者さんは、偉くなると名前が変わったりするみたいでした」
映画やテレビドラマで有名な歌舞伎役者がある日突然違う名前になることはある。
テレビのニュースで取り上げられているのを見たことがあった。
それを襲名する、と言うらしい。
タイムスリップする前の私の生活には襲名なんてまったく無縁だったけど、太夫を目指すことになった今の私にはあながち無関係なことでもない。
これからの頑張りとその成果によっては、顔の似ている吉野太夫の名前を継ぐ話が出るかもしれないことは、菖蒲さんから聞かされていた。
私の答えに、慶喜さんがお猪口を置いて穏やかに微笑む。
「そうそう、まさにそれだよ。
役者は名前に見合う芸を身に着けたり、その名前に見合う芸を目指すために名前を変える。
俺の場合もそんな感じ。
一橋家を継いだ後、時の上様から一字を頂戴して…」
慶喜さんの指が宙を滑る。
指で示されたのは"慶喜"の文字。
いたずらっぽい瞳をして慶喜さんは続けた。
「でもね。
この名前で呼ばれることというのはあまりないんだよ」
「え?」
「俺の名前が慶喜であること自体、市井の人は知らないからさ」
その慶喜さんの言葉が、私にはあまりピンと来なかった。
それはもちろん、テレビも新聞もない時代だから、一橋慶喜が実際にこんな顔だと知っているのは直接の知人以外にはいないのだろう。
でも、慶喜さんは幕府の中でもかなり身分の高い有名な人だと思う。
有名人なのに、名前を知られていないなんてなんだかおかしい気がした。
私がいつまでも腑に落ちない顔をしているので、慶喜さんは微苦笑を浮かべて言葉を重ねた。
「ここを出れば皆、普通は一橋殿と呼ぶからね」
「あ…」
お前はあまり聞いたことがないかな、と、慶喜さんは笑って付け足した。
「もっとも、ここでそう呼ばれないことはかえって都合がいいんだけどね。
町の人たちに俺が往来をふらふらしていることに気づかれてしまったら大混乱だよ」
冗談めかして言うと慶喜さんは澄ました顔でお猪口を手に取った。
慌てて私が徳利を手に取るとと、慶喜さんはにっこり笑ってお猪口を差し出してくれた。
でも…。
「それなら、慶喜さんの本当の名前は、"よしのぶ"さんなんですか?
"けいき"さんなんですか?」
ほんの一瞬。
見間違いかと思うくらいの短い間、慶喜さんの瞳に戸惑いの色が浮かんだ気がした。
でも、すぐに慶喜さんはからかうような表情で逆に問い返してきた。
「どっちだと思う?」
「えっ…」
質問で返されるとは予想していなかったので言葉に詰まってしまう。
考えてわかる類のことでもない。
助けを求めて慶喜さんの顔を見ても、ヒントをくれるつもりはないみたいだった。
外からは相変わらず虫の声が聞こえる。
迷った挙句、私はこう答えた。
「どっちが本当かは、わかりませんけど…。
けど、私が慶喜さんに教えてもらった名前は"けいき"さんですから。
だから、これからも"けいき"さんって呼んでもいいですか?」
少しの間をおいて、慶喜さんの表情がふっと緩んだ。
慶喜さんはお猪口を手放すと、空いた右手を私の左頬に伸ばす。