蟲の恋
呟き、衣桁に掛けた羽織を斜めに見遣る。
ひとところに腰を据え来る日も来る日もやまいと蒐集物の相手をしている化野より余程、あの男は素直なところがある。
純である、とでも言うべきか、ともかく嘘が下手なのは確かだ。
蟲煙草を片手に語る、その視線が揺ぎなければ揺るぎないほど、彼の言葉は真実と掛け離れる。
しかしそれを口にもせず、常通り羽織を買い取った己は滑稽だと思う。
(ばればれの嘘が可愛いとは、俺も末期かね)
くっと喉の奥で笑えば、揺れた銀鎖の冷たい感触が頬に当たった。
ずり落ちかけた片眼鏡を指先で押し上げ、そのままの手で頬杖をつく。
吹き込んできた冷たい風が、首筋を撫でた。
もう季節は冬へと差し掛かっている。
陽が落ちれば、もっと冷え込んでくるだろう。
化野は伸びついでに立ち上がり、開け放したままだった障子を閉めながら垣根の向こうの山を見た。
紅葉も過ぎ裸になりつつある木々の中で、人が歩き続け擦り減らした道筋は白く浮かび上がるようだ。
ギンコはよくそちらを使って訪れる。
だから障子を閉めるついでに、こうして何気なく道を確認するのが化野の習い性となっていた。
道にそれらしき人影は無い。
それはそうだろう、つい昨日ギンコは化野の家を発ったばかりだ。
細く残していた隙間から少しばかり強い風が吹き込んで、化野は首を竦め障子をぴったりと閉める。
買い取った羽織は暖かそうだが、使う気にはならなかった。
本当に蟲がいるかもしれないということではなく、あの羽織は既に化野の中で非日常と分類されてしまっている。
何気なく羽織る、という行為が及ぶ対象ではない。
──あれは、ギンコの一部だ。
ギンコには両目で世界を捉えていた頃の記憶がないという。
強かに酔った際に、ほろりと過去を漏らした。
彼の記憶は夜を歩く、そこから始まっている。
『じゃあお前の記憶を俺が買い取ってやるよ』
同じく酔い潰れる寸前だった化野の言葉を、ギンコはきっと覚えていないだろう。
或いは覚えていても、本気にしていない筈だ。
化野は、本気だった。
記憶はものにも宿るのだ。
だから、化野は羽織に棲む蟲が嘘であってもそれを重視しない。
彼が求めているのは、虚も実も含めた集合的な"ギンコ"の存在だった。
いとしいものの記憶を蒐集し、溜め込んでゆく。
この量り兼ねるこころにも何某かの蟲が棲んでいるのかもしれない。
じわじわと化野を蝕んで、意思の在り処を乗っ取ろうとしているようだ。
「我ながら見事な懸想っぷりだぜ、なぁ、ギンコ」
唇を吊り上げ振り返った先で、羽織はどこまでも清冽な山並みを広げていた。