愛のことば
たしかこんな光景を、昔あった国の映画で一度観た……。そんな錯覚に、私は足もおぼつかない。
「キョン子。」
目の前を歩くハルヒコが私の名前を口ずさむ。距離はそんなにないはずなのに彼の声は遠く、それでいて鮮明だ。彼の姿をちゃんと見ようとしたが、不思議と目が開けられない。
「どうした、急に立ち止まって。気分が悪いのか?」
「いやそうじゃないけど……」
そう答えたが、ハルヒコは無言で私にペットボトルを差し出した。中の水が太陽の光を分解して地面に細やかな模様を作り出している。きれいで見とれそうになったが、ハッとしてそれを受け取りふた口ほど飲んで持ち主に返した。すると胸のあたりが綻び何かがストンと中に落ちて、少し安心する。透明な煙に包まれているかのような安らぎがあった。
時刻はもう午後を回っていて、未だ道行く人はまばらだったがこのカフェ街にもすぐに人が流れてきそうな頃だった。私たちは、落ち着ける場所を探して歩いた。
足音が硬く響く石畳をあてもなく歩き続け、偶然見つけた階段をのぼってみるといくらか開けた場所に出た。そこは人々が憩うような広場だった。中央には噴水が置いてあり、奥の手すりの向こうには空と街が広がっている。ちょっとした高さのある場所で、手すりの外を覗き込めばさっきまで歩いていた街が見下ろせた。きれいな場所だったが、もうこれ以上は進めそうになかった。
「何だここ、いいとこだな。」
「でも、誰もいないよ。」
私がそう言うと、ハルヒコは誰もいないからいいんだろと当然のように返した。それもそうだ、と私も思い直す。
広場のまわりには木がいくつか植えられていて木陰の下にはベンチがあった。私たちはそこに座り、ふぅと一つ息をこぼす。
木々を抜ける風が何とも言えず気持ちいい。自分と空気の境目が曖昧になりどこまでも感覚が滲んでいく。水蒸気になった気分だ。
吹き上がり地に落ちる水しぶきを何となく眺めていると、ハルヒコがまた、私の名前を読んだ。
「なぁ、キョン子。」
「……何?」
隣に座るハルヒコに目を向けると、ハルヒコは私をじっと見ていた。思わず私も彼の瞳を覗きこむ。
ハルヒコの瞳には……
海が、映っていた。
真っ黒なのにときおり深海のように青みがかり、チカチカきらめく水面が揺れている。波間にさらわれる感覚が、私の体を通りすぎた。
「ここから、抜け出そうぜ。」
一緒に、どこまでも。ハルヒコはそう言った。
私たちが持っているものは唯一限りある未来だけだった。意味あるものを絞り取ろうと必死で、そんな日々を繰り返し繰り返す。けれどもう疲れ果てていた。子どもみたいなわがままだとわかっていても、かつてのまどろむ永遠が恋しかった。
「……そんなこと、できるの?」
震える声で、私は問い返した。
ここ以外にいけるところなんてない気がした。ハルヒコが連れて行ってくれるならあるいは……そんなこと、口にできるはずもない。
海を湛えた瞳が私を真っ直ぐに捉えた。遥か彼方からする声には、かすかに波の音が混じっている。
「できるよ。お前がそうしたいなら。」
そういったハルヒコの両手が私にゆっくりと伸びてきて、繊細そうに私を抱きしめた。いつもの腕力からは想像もできないほど優しく柔らかい。ハルヒコの肩越しに見る地面には雲間から零れ落ちた神様みたいな木漏れ日が揺らめいていてる。なんて美しい世界だろう。
私は何だかやるせなくて、悲しくて、でも満ち足りた気持ちでハルヒコの背中にそっと手を回した。そうするとハルヒコの私を抱く腕に少し、ほんの少し力が入る。
ありがとう、一言そう呟くともう駄目だった。溢れる涙を拭いもせず、ただ頬を伝って流れ落ちていくのを見送った。
たとえ傷つけるだけだろうと、ただの舐め合いになるだろうと、私は探し続けるだろう。
その、呪文のような愛のことばを。
ハッとして起き上がるとまだ授業中で、黒板には粛々と数字やら宇宙人語が並べられていた。
「うあ、あれ?」
ついキョロキョロとあたりを見回す。みんな真面目に授業を聞いているのか、私の方など見向きもしない。
何だか今、すごく恥ずかしい夢を見ていたような……。
内容はあまり覚えておらず、みぞおちあたりが甘く締め付けられる感覚だけが残っている。
未だ体の半分を夢の中に置いてきたような感覚のまま少し混乱していると、後ろからシャーペンのようなものでつつかれた。振り返るとそこには見知った顔のハルヒコがいて、小声で「どうかしたのかよ?」と聞いてくる。そういえばさっきの夢にもこいつが出てきた気が……。
何だか無性に恥ずかしくなり、早口めに何でもないと返してまた前に向き直った。なぜだかハルヒコの顔を直視できなかった。
「変な、夢だったなぁ……」
妙に熱を持った頬をさすりながらひとりごちる。昼下がりの午後の授業は、もうすぐ終わりを迎えようとしていた。