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赤ワインと煙草

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 もう戻れない頃、に郷愁する年齢を有していた。のみならず、例えば南の島の少女のように守らねばならない幼いもの、勝手に自らに課した義務や「あるべき」だとか「せねばならない」強迫観念。音楽を奏で、女を口説き、手ずから作った料理に舌鼓を打つ、だけで幸せを感じていた、若き日はもう手に入らない。
 ワイン片手に牛肉を煮込む、右頬には引っかき傷。ゆるり波打つ髪はうなじで括って、玉ねぎ、人参、セロリ、切り刻んで鍋に入れ、落ち込むならば料理が一番、言い訳しつつ涙がほろり。鳥も鳴かない午前三時。発情する猫の、壊れたバイオリンだけが聞こえる。積み重なった不安や感情が溢れてどうしようもなくなる、幼かった頃には経験しえない情動を、慰めてもらおうと女を誘ったら、おそらく心あらずのセックスがお気に召さなかったのだろう、長い爪が頬の皮膚を持って行っただけで、ボヌフォワの不安を取り除いてはくれなかった。ワイングラスをゆるゆると振る、弱くなった涙腺にアルコールが染みて、更に更にと涙を誘う。高かったワインの舌触りの良さですら恨めしくて、牛肉の上に振りかけた。そして鍋を放って余り好きではない煙草を取り出す。乾いた唇が紙と擦れる嫌な感触、コンロの火に近づくと右頬の傷に染みた。
 肉に煙草のにおいが移らぬように、窓辺に寄る、ボヌフォアの目の届く位置で、先ほどから騒いでいる猫たちが交尾の真っ最中。雄猫の性器は棘だらけで、雌猫は酷く痛いらしい。自分も知らず知らず、抱いた女性を傷つけている。人間も猫も一緒である。吐き出した煙が、暗い空に吸い込まれる。こんな不安定な姿、誰にも見せられないな、と考えボヌフォアは窓を閉めようとした。両開きの窓の、片方に手を掛けて、ふと外が騒がしい。
「ほら喧嘩したあかんって、仲良うしい」
 訛りで喋る男が、猫の交尾を邪魔していた。涙を拭って、何してんの、ボヌフォアが声を掛ける、あれお前こそ何しとるん、シャツを乱した男はおそらく深夜三時とは思っていない。おそらく酒が入っているのだろう、少し千鳥足。ザルと豪語し、いくら飲んでも酔わない筈の男なのに、今日はどれだけ飲んだのか。とりあえず入りなよ、と牛肉が良い匂いを立ててきた室内に誘った。猫はどこかに逃げていった。
 おじゃまするで、とカリエドの声。煙草の火を消し、泣いていたのを悟られないように、とキッチンで顔を洗ってからボヌフォアは出迎える。牛肉はもう少し煮込みが足りない、長時間目を離すのが嫌で、リビングでなくキッチン、カウンター前の固い椅子にカリエドを座らせて、二人分グラスに水を注ぐ、とカリエドは一口に飲み干して、ちょっと聞いてぇな、ロマーノが酷いねん、そして語られる愚痴愚痴愚痴。門限を守らないだとか、エロ本がベッドの下から見つかっただとか、世話焼きの母親みたいな台詞が続く。ボヌフォアは聞き流しつつ、空いたワインボトルに水をたっぷり、カリエドのグラスに注いでやる。
「最近なぁ、酒、弱なったわ」
 そう言って入れた端から飲み干すので、またボトルに水を足して手元に置いてやる。牛肉に串をさして、良い火通り、もう食べても良い頃合、ボヌフォアが肉を切り皿に盛る間、勝手に水を注ぎつつ五分間、流れるような愚痴は続いた。しかし香り立つ皿を目の前に出され、口をつぐむ。午前三時には些か重い牛肉に、カリエドはボヌフォアの顔を見上げた。
「お前はしんどいと料理作るなぁ」
 美味しいからええけど、と立ち上がってフォークとナイフを取りに食器棚。ばれていたか、ボヌフォアは手慰みに煙草をくわえた。止めたコンロの火を付けて、顔を寄せる、肺に煙が充満する。俺にも、とねだるカリエドに一本やると、コンロを付けるのを不精して、キスするように、煙草から火を取っていった。ついでに頬をさらり撫でて、女にやられたん、煙草臭い舌で傷を舐める。早く食べなよ、促すと、まだ熱いもん、と猫舌の彼。窓の外では猫が発狂。原因などをカリエドは聞かない。愚痴りたいならお好きにどうぞ、聞いてもらった分聞いてあげるで、そういうスタンス。幼かった頃は物足りなかった、しかし歳を取った今ではちょうど良い距離感。カリエドは椅子に座り、まだ長い煙草を灰皿に押し付け、息を吹き、肉を冷ます、その背後からボヌフォアは彼を抱きしめ体重をかけた。が、カリエドは気にせず、適温に冷ました牛肉を口に入れて、おいし、呟いて更に肉を切り分ける。猫がまた騒いでいる。
「何で、俺泣いてるんだろ」
 首筋に吐息をかけるように、ボヌフォアは自問を口に出す。また涙腺が緩んできて、カリエドの首筋に一筋涙がこぼれる。何やってるんだ、と反省するも余計にストレス、腹に回した手に、ぎゅっと力が入る。
「ちょっと口開け」
 金髪の、括っていた紐を解かれて、そして顔を上げると、口に肉を入れられた。赤ワインの良く染みた、柔らかい、舌の上でとろける肉。緑の目が、じっと咀嚼の様子を見つめている。美味いやろ、完全に飲み込む前に尋ねられ、こくり頷いて返す。
「お互い歳取ったもんなぁ」
 カリエドは酒に弱くなったし、ボヌフォアは涙腺が緩くなった。もう戻れない頃を郷愁したり、育てねばならない子供に手を焼いたり、眩しかった昔を羨んだりする。勝手に自らに課した義務に苛まれて落ち込んで、不安の種を抱え込んでは一人泣く、そういう夜は段々と増える。でもな、痛々しく赤く染まった瞳に、カリエドが口付けて、太陽みたく、笑う。
「悪いことばっかりやあらへんやん。お前の料理、毎回美味しなってんで」
 親分知ってるねんで、そう誇らしげに胸を張り、酒と煙草の混じった息を吐いて笑う。短く髭の伸びた顔は確かに昔に比べて老けてしまった、気付けばまた涙が流れるけれど、歪んだ視界の中に見える笑顔は、おそらくずっと変わらない。もう手に入らないあの眩しい頃、手をすり抜けて変化する日々の事象、しかし、変わらないものもあるのだ。カリエドの肩に頭を預ける、無骨な指が髪を撫ぜる。唇に残っていた牛肉のソース、舐めると割れた唇に、少し、血がにじんだ。
作品名:赤ワインと煙草 作家名:m/枕木