愛の定義に惑いて
だがそれを、どうしても殴ることが、できない。
「どうしたの、シズちゃん。殺したいほど、嫌いなんだろ」
拳は握った。激情に合わせて硬度の変わるそれは、本気でやれば冗談ではなく目の前の存在を消し去ることができる。別に一発で仕留める必要なんかない。何度も殴れば、自分と違ってただの人間である相手は耐えられないだろう。
だが、その笑みを前に、一ミリも動けない。
「まあ、それはおれにはわからない感情だからなぁ。だっておれはシズちゃんを殺したいとは思ったことないからね。ただ──死んで?」
目の前の男は、ごく単純なことのように首をかしげた。さらりと黒髪が揺れて、見た目だけは完璧な男が笑う。
「シズちゃんが死んでくれれば、人間全員を愛してあげられる。これほどうれしいことはないさ」
歌うように口にするくせに、そこに熱はない。頬を差し出す体勢のまま、両手を広げて、肩をすくめて、造作だけは完璧な顔が歪められる。うれしいというくせに、それはむしろ憎らしいいいたげにさえ見えた。
「殺してあげられれば楽なんだけどね。殺してあげられるほど、愛してないから、さ」
伸ばされた指先が、ぴたりと左胸に押しつけられる。振り払おうと思えばいくらでもできるその指先が、まるでナイフであるかのように動けない。いっそナイフのほうがよかったかもしれないと思ったのは、そんなものを突きつけられれば相手を殴る理由にできたからだ。
だが実際は、拳を握ったまま、それを振りかぶることもできず、ただ男の言葉にさらされていた。
男は、間の抜けたこちらの顔を笑う。歪んだ笑顔で、視線だけはその笑みの欠片も含まないまま、それでも均衡を失わないのが不思議だった。
「愛してあげれば簡単なんだろうけど、シズちゃんも耐えられないだろ?」
互いを意識した助詞を強調して問いかけてくるくせに、こちらの口が動くことはないと知っているように男は答えを待たない。それとも、返答は必要ないという切り捨てであったのかすら、ろくに判断がつかなくなっていた。
頭痛がする、気がする。
「ま、別にどうでもいいけど。だって、おれ、は絶対に、いやだ」
そうやって切り捨てられたのは、自分の感情ではない。平和島静雄という自分自身だと、知っていた。
「ほら、早く殴って。殺す気で。そうしたら、正当防衛。殺せるんだ──オマエを」
喘ぐようにそれを口にした饒舌な男は、ただ白い頬を差し出していた。この男の命を握るということは、自分の命も握りつぶすということと同じなのだということに、咽喉がひりついた。ひどく興奮していると気がついて、目の前の男と同じにおいをさせる自分に吐気がした。