愛という名を
「お前の心に変化が現れたのであろう。思い当たることがあるであろう」
刀々斎は殺生丸にそう言っていた。その結果として天生牙が変化し、冥道残月破に進化したと。りんは殺生丸が新しい剣の境地に達したことが嬉しかったが、一方で殺生丸の心に現れた変化というものが気になり、邪見に尋ねてみた。
「邪見さまあ、殺生丸様の心の変化って何なのかなあ?天生牙を変化させるほどの出来事があったのかなあ?」
「ふうむ。確かに刀々斎の奴そう言っておったな。うむ・・・。多分、あれじゃな」
「なになに?邪見様、なにか知っているの?」
「りん、お前はそばにいなかったがな、殺生丸様が魍魎丸と闘った時のことじゃ。あいつが神楽のことを無駄死にじゃとけなした時に、殺生丸様が怒ってのう。魍魎丸に無理やり剣を突き入れ危機一髪になったことがあったんじゃ。殺生丸様が他の者のために気持ちを動かすなぞ、めったにないことじゃから、わしも驚いたのじゃがな。多分、あの時に殺生丸様の心に何か変化が現れたのじゃろう」
「神楽・・・。あのきれいな女の人、死んじゃったの・・・」
「ああ、しょせん神楽は奈落の分身。いずれは滅ぼされる運命だったと思うがの。神楽の死に際に殺生丸様は居合わせたということじゃ」
「殺生丸様が・・・神楽をみとったの?」
「詳しいことはわしも知らん。殺生丸さまが戻ってきた時に神楽が死んだとつぶやいただけで。後から、犬夜叉たちに話を聞いたがな。殺生丸様は神楽が逝くのを見送ったそうじゃ。神楽は笑っていたと殺生丸様は言っていたそうじゃ。神楽は琥珀を逃して命を救ったらしい。だから犬夜叉たちも、神楽が死んだことを喜んではおらんかった。しかし、殺生丸様も神楽の死を悲しんでいるとは思わなかったがな。ふむ。まあ、憐みじゃろうな。憐みが殺生丸様の心の変化ということかのう」
「憐み・・・」
りんはそうつぶやいて、うつむいた。
憐み、とは少し違うと思う。りんは、神楽が殺生丸を好いていることに気づいていた。殺生丸を頼りにしていることも。本当は殺生丸に助けてもらいたかったに違いない。奈落から逃れるためには、殺生丸の力が必要だったのであろう。神楽は奈落の分身でありながら、自由を欲していた。奈落からその身を完全に独立させたいと願っていた。そんな神楽の思いに、殺生丸も気づいていたのではないだろうか。
(殺生丸様も神楽のこと、好きだったのかも)
りんはそう思った瞬間、胸がちくりと痛んだ気がした。
(殺生丸様は神楽が死んで、悲しんでいるんだ、きっと。だから、ずっと剣の練習ばかりしているんだ。りんや邪見様を残して・・・)
殺生丸は会得した冥道残月破を更に自在に使いこなすために、一人で山に行って妖怪たちを相手に剣をふるっていた。朝になると、りんたちのもとへ帰ってくるが、日が暮れるとまた一人で出かけてしまう。りんの世話をするためにおいてけぼりにされる邪見がぶうぶう文句を言っていた。
殺生丸の表情に以前と変わったところは見られなかったが、天生牙が変化を遂げたことは事実なのだ。あの刀は殺生丸の心と共鳴することをりんは知っていた。やはり、殺生丸の心に何かが生まれたのであろう。そして、それは神楽がもたらしたものらしい。
(りんが・・・りんが役に立ちたかったな。神楽ではなく、りんが殺生丸様の役に立ちたかった。殺生丸様の心を動かしたかったな・・・)
りんは、自分よりも神楽の存在のほうが殺生丸にとって大切なものなのだと思い、そのことが思わぬ痛みをもたらしていた。
「あ!殺生丸様、お帰りなさいませ!今宵はお早いお帰りで」邪見が殺生丸の姿をみつけて駆け寄っていく。いつもならばりんも邪見にまけじと殺生丸に駆け寄るのだが、今日のりんはなぜかそうしたくなかった。殺生丸と自分の間の距離を、痛いほど感じていた。その場に立ったまま、殺生丸に邪見がまとわりつく様子を見ていたが、殺生丸がふとりんへ顔を向けた。近づいてこないりんを不審に思ったらしい。殺生丸の方からりんへ近づいてきた。
「りん。変わりはなかったか?」
「あ・・・はい。邪見様とちゃんとお留守番してました。殺生丸様はあの・・・また剣の修行?」
「うむ」
「冥道残月破は使いこなせるようになったの?」
「ふん。無論だ。私を誰だと思っているのだ」
「そうだね、殺生丸様にできないこと、ないものね。でも・・・やっぱり、神楽のおかげなのかな・・・」
「神楽?」
「うん。神楽が殺生丸様の気持ちを動かして・・・それで天生牙が成長したんだよね。刀々斎様が言っていたものね。殺生丸様の気持ちが変わったって」
「・・・」
「神楽は殺生丸様のこと好きだったものね。・・・殺生丸様も、神楽のこと、好きだったんだね・・・」
「・・・くだらん」
殺生丸はりんにくるりと背を向けて歩き去ろうとした。
「・・・くだらなくなんかないもん!」
思わぬりんの大声に、殺生丸が振り向いた。邪見も向こうで驚いた表情をしている。
「殺生丸様の気持ちのこと・・・くだらなくなんかないもん!りんだって・・・りんだって、天生牙の成長のために役に立ちたいもん!殺生丸様の気持ちの中にりんのこと・・・りんのことも置いてほしいもん!りんだって、殺生丸様に好かれたいもん!」
「・・・・・」殺生丸は無言でりんを見つめていた。
「あ・・・ごめんなさい、殺生丸様。りん、変なこと言っちゃった・・・」
りんは急に恥ずかしくなり、うつむいた。自分が何を言いたいのか、りんはわからないまま気持ちがぐちゃぐちゃになって、顔を上げられなかった。
「りん」
殺生丸が自分を呼ぶ声が聞こえたが、それでもりんは顔を上げることができなかった。
「りん」
もう一度殺生丸がりんの名を呼んだ。りんがおずおずと顔をあげた。
「お前を死なせるようなことはしない」
殺生丸はりんの顔をじっと見ていた。
「お前を神楽のように死なせることなぞ、決してない」
「殺生丸様・・・」
「お前を狼の牙から救ったのは、この天生牙だ。天生牙がお前を選んだ。お前がこの天生牙に新しい生き方を与えたのだ。天生牙がお前をこの世に呼び戻した時から、お前は私のもとにいる。私の心も何も、お前は私とともにいる」
殺生丸はりんに一歩近づいた。
「こうして、お前は私のもとにいる」
「殺生丸様・・・りんは・・・」
殺生丸はりんをその右腕に抱き上げた。
「もう、くだらんことをいうな」
「殺生丸様・・・」
「お前は神楽ではない。お前はお前だ。私が天生牙でこの世に呼び戻したりんだ。あれ以来、私が共にいるのはお前だ」
「でも、りんも殺生丸様のお役にたちたい」
「ばかなことを。私に人間の小娘の助けなぞ必要ない。妖怪の力も無論必要ない。お前はそんなことを考える必要はない」
「でも・・・」
「そのままでおれ」
「そのまま?」
「りん。お前がお前であれば、それでよい」
「りんがりんであれば?」
「そうだ。お前はそのままでおればよい」
「殺生丸様・・・」
りんは殺生丸の身に寄り添った。そんなりんの頭に殺生丸はそっと手を添えた。
殺生丸が妖怪の身ではなく、人間の男であったなら、きっとりんに告げたであろう。自分に必要なのはお前だと。お前はとっくに私の心の中にいると。お前は必ず私が守ると。