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彼は野良犬に手を噛まれた

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「すきだよ」
 その声は、夕暮れによってだいだいに染めぬかれ、もはやそのなかに呑み込まれてしまいそうな教室のなかでも、そのだいだいに呑み込まれてしまうことなくルルーシュのもとへとたどり着いた。しかしだからといってしっかりと受けとめられたというわけではなく、おそらく目に見えていればそれはルルーシュの胸に当たって粉々に砕けて落ちてしまっているのが見えただろう。
 だが、彼女はそんな自らの言葉のゆくえは気にならないようで、やわらかな表情でとおくをながめていた。そこには、俗にいう告白──おそらくいまの状況はそんななまえのはずだ──のときにありがちな照れや不安を巻き込んだものではない。ふだんの元気な様子ともはなれた、ぼんやりと輪郭がとらえられないかおをしていた。
 ルルーシュの唯一の旧友は、ゆっくりとふりかえった。
「でも、ルルーシュにはだかれたくない」
「え、だくって……」
 この場では聞くはずのない言葉を聞いた気がして、ルルーシュは伏せがちだった視線をぱっと持ち上げた。しかしそれでも彼女のものとそれが通じることはなく、まるでその言葉は幻のようにすら思えた。しかしたしかにルルーシュはその言葉を聞いており、そして先程とまったく空気が変わらないことから、冗談の類でないことも理解する。
 一度視線を彼女へと向けると、それまでとは逆に目がはなせなくなる。ふだんならばまっすぐにルルーシュを見てくる翠の瞳が、いまはただじっと下を向いていた。それはルルーシュや周囲の様子を探るでもなく、ただ一箇所に固定されていた。そこには彼女にしかわからないなにかが落ちているようにすら思えて、ルルーシュはおもわずその視線をたどった。
「対等でいたいよ。負けたくない。頭の良さも背の高さも将来性も、きっと力もほんとうはルルーシュのほうが上。だって、ルルーシュはおとこのこだからね」
 ルルーシュの動揺をさそった先程の言葉などなかったように、言葉はつづけられる。彼女が並べたものはたしかにルルーシュのほうがスザクより勝っているものであり、そして正否をあいまいにしたものに関してもまちがいではないだろう。身体に元来そなわったものを、後天的に逆転するのはむずかしいものだ。
 息もつかぬままにとうとうと告げた彼女が、わずかに身をこわばらせて口にした最後の言葉こそが、もっともいいたかったことなのだろうというのはすぐにわかり、ルルーシュは思わず視線をうつむかせた。
 スザクはいまだルルーシュのほうを向いているようで、まっすぐに立った姿がぶれることはない。ルルーシュとは対称的に全身がばねのように鍛えられているスザクの立ち姿は、ルルーシュとは異なる意味で姿勢がきれいだと思っていた。
「ルルーシュより勝ってる部分ってどこかなって考えたら、運動が好きなことと、おんなのこであること。でもふたつめのは、ルルーシュが持ちえないものだから」
 ルルーシュはあいにくと他人との自分のちがいや、他人よりも自分が勝っている部分を指折り数えたことはなかった。だが彼女に対しては幼馴染の気安さもあり、計算なしに動くのをなじったり、その天然からぽつりとこぼす言葉に呆れたことなど多々存在する。それは彼女とは異なるところ、むしろ優れていると思っていることを挙げているのとそう変わらない思いにもとらわれる。
 固まる、という表現が正しいまでに、言葉はもちろん動くことすらそう簡単にはできないルルーシュを見ているはずの彼女は、ふっと息をもらした。それはため息にも似た音色だ。
「どうして、おんながおとこに抱かれなくちゃいけないの。どうしてセックスをしたいと思ったら、ルルーシュに抱かれなくちゃいけないの」
 ふだんならば、ルルーシュの耳には入らない言葉だ。彼女がそんなことを口にするとは思っていなかったし、ルルーシュの周囲でもそんなことを口にする人間はそう存在しなかった。学校生活の大部分を占める生徒会には、同性よりも断然異性のほうが多いからかもしれない。
 しかし、彼女が口にすることで、そういえばそれは人間として当然の行いであるということに気がつかされる。人間は生殖行動を行うのに、より良い種というより感情を主体にするからこそ、好きだという相手と身体を重ねようとする。
 それが、人間だった。
「るるーしゅを、だきたいな」
 時間が留まる感覚というものを、はじめて感じた気がした。彼女の物言いは至極おだやかなものであり、しかしだからこそその言葉の獰猛さが際立つ。
 その言葉はおそらく性別からいえばルルーシュが告げるべき言葉なのだろう。だがルルーシュが口にしても、彼女がそうしたような獰猛さは現れないだろうということは考えずともわかる。静かな彼女の声に隠された熱を、ルルーシュがかかえることはないだろう。
 彼女の欲が、あばかれる。
「おんなであることに不満はないよ。むしろ誇りに思ってる。自分のからだもきらいじゃない。こんなでもかわいいっていってくれるひとがいるしね。ほかのひとなら、おんなの自分が抱かれるのも、そんなものかなって思ったとおもう」
 人間は、多くのほかの異性と性交する唯一の動物である。それが果たして種の保存というかぎりなく本能的なものであるのか、それとも愛だとか恋だとか、それに類する感情が目指す唯一というものを探すためであるのかはわからない。もしかしたら、それらは表裏をなしているかもしれない。
 だが、それに答えは必要ないのだ。彼女はもはや答えを出している。
 ルルーシュはひどくおそれながら、ゆっくりと視線をあげていく。太くなく、だが細いともいいきれないものの形の良い彼女の身体の線をたどっていき、その上に精密に置かれたように見える静かな表情を見た。それはなんの感情も表さず、だからこそどこか哀しげに思える。だがそれはきっとルルーシュの見間違いなのだろう。
 そうでなければ、身がふるえるほどにこわいとは思わない。
「けれど、ルルーシュはいや。ルルーシュには、おんなだからって抱かれたくない。ルルーシュを受け入れたくなんか、ない」
 それはもしかしたら、好きだというはじめの言葉を否定するものにすら聞こえるだろう。しかし、彼女にとってはその言葉といまの感情はまったく同一のものなのだ。それを強く感じて、ルルーシュはぶるりと身をふるわせる。それはかぎりなく本能に近い感情だと思ったのだ。
 種の保存という生殖本能であれば、性別を尊重するだろう。しかし彼女にはそんなものはない。そこにあるのはむしろ、食欲であるとかそんなものに近いのだろう。かぎりなく本能的でありながら、感情の果てであるそこに彼女はいきついたのだ。そして、そんな感情に冒されたことのないはずのルルーシュにすら、気がつかせてしまった。
 愛だとか恋だとか、そんなものに類する感情の果てを、ルルーシュは見せられていた。それは、やわらかくきれいに笑っていた。

「るるーしゅを、おかしたいの」

 だからすきだよ、と彼女はルルーシュの手をとる。ふるえるほどにきつく握りしめられ、ルルーシュは彼女のおそれを知る。立てられた爪がまるで獣の牙のようだった。