君がここで笑ってくれること
第1章 1話
君が俺の傍にいてくれること。傍で笑ってくれること。触れてくれること。
そんなとりとめのない日常を、ささやかな幸せを、俺はずっと当たり前のことだと思っていたんだ
【君がここで笑ってくれること】
――ぎしゃっ、と。
唐突に、耳の痛む金属同士が擦れ合う音が会議場に響いて、そこに集まっていた各国は驚きに肩を震わせ音の発生源を見遣る。
がしゃん、がんっと音を立てながら、ずらりと並んだ長机の隙間を縫うように金色の髪の青年二人が駆けていく。片方は、濃い茶色のフライトジャケットを羽織った大柄な青年、そしてもう片方は、ダークオリーブグリーンの軍服を堅苦しく着こなし吊革つきのベルトを肩にかけた細身の青年だった。
「ばかぁ!返せって言ってるだろ!お前マジでふざけんなっ!」
自称23歳の青年――イギリスは、くるくるとよく変わる表情を幼く歪め、柔らかな曲線を描く頬を紅潮させながら前方を走る男を追いかける。すれすれのところでイギリスの手からひらりひらりと逃れるアメリカは、指先に紙切れをチラつかせながらひょいと机を飛び越えた。
運動能力ではアメリカに対して分が悪すぎる。ちっと舌打ちをして、イギリスは回り込むように彼を追いかける。上背のあるアメリカの腕に必死になって手を伸ばし、息を荒げている様は、まるでねこじゃらしを持った飼い主にじゃれつく猫のようにも見えた。
「あー…またやってるのかいあの元兄弟は。ったく、若いねー。お兄さん羨ましいよ」
最近もあっちの方で腰がなぁ…とフランスはだらしなく机に肘をつけて、呆れたように笑う。その隣で、神経質なまでにきっちりとスーツを着こなした日本が、書類を書く手を休め彼らの様子を見ながらふと首を傾いだ。
「少し…いつもと様子が違うように思われますが…」
「ん?そうか?俺にはまたいつもの痴話喧嘩に見えるがなぁ」
「いえ…なんとなく、ですが…」
困惑した色を浮かべ、日本は無表情な顔を曇らせる。
日本という国は、人の感情の機微に敏い。なんとなく、二人の様子がいつもと違うことに日本はおぼろげながら気づいていた。しかし、それが上手く言葉にできないことと元々言葉少なである気質が邪魔をして、結局それを口にすることはなかった。
気遣わしげに二人を見ながら、どうかこの悪い予感が杞憂でありますようにと、そう祈ることが今の彼に出来る最大限のことだった。
「返せよ!大切なもんなんだって言ってるだろ!」
「なんだい、これがそんなに大事かい?君って人は本当に懐古主義も甚だしいよね!馬鹿じゃないのかい!」
「バカって言うなばかぁ!いいから返せ!いい加減にしろよお前!」
日本の心配をよそに、二人の言い争いといたちごっこは更に加速していく。先程までは避けていた机は、今は無残にも蹴り倒されその上を二人の土足が汚していく。
紳士であると常日頃礼節に重きを置くイギリスは、けれどリミッターがブチ切れたのか首を締めつけるタイを緩め本気でアメリカの腹に一撃を喰らわせようと足を上げた。
イギリスの家では最近タイボクシングが流行っているので、国であるイギリスもほとんどの技が使えるし、威力も半端ない。しかし、アメリカにとってのそれは幼い子供の戯れでしかなかった。
蹴りあげた彼の足を片手で簡単に掴んでしまうと、バランスを崩したイギリスの体を反転させて、彼の背を自分の腹につけるように押さえこんだ。胸の中でじたばたと往生際悪く暴れる体に腕を回して、上肢ごと押さえこんでしまう。
歯軋りして悔しがるイギリスの目の前に彼がこんなになるまで必死に取り戻そうとした紙切れをぴらぴら翳して、アメリカは嘲るような冷たい声音で口を開いた。
「全く、こんな写真を後生大事に持ってるなんて…君、本当にしょうもない人だよね。過去のことなんて結局過ぎたことじゃないか」
アメリカが眉を顰めて見遣る写真は、幼いアメリカと、彼を抱きあげ微笑むイギリスの二人が映る写真だった。お互い体をぴったり寄り添わせて、幸せそうに微笑んでいる。
まだ独立前の、ただただ優しく穏やかで優しかった時間を切り取った一枚。イギリスが手帳に挟みひっそりと指先で辿り微笑みを向けていたそれをアメリカは目ざとく見つけ、奪い取った。
アメリカは不思議でしょうがなかった。過去の遺物と化した記憶を、どうしてこうも彼が大事にするのかが。
アメリカは苛立ってしょうがなかった。もう二度と戻ってこないものを、彼が愛しげに見詰め自分には決して向けないような微笑みを浮かべることが。
思わず力を込めた指先が、薄い写真の端をくしゃりと歪める。はっとそれに気付いたイギリスは、不自由な体を無理やり動かして、噛み付くように叫んだ。
「…!それでもっ!俺にとっては大切な思い出なんだよ!お前には分からねぇだろうがな、もう二度と戻らないからこそ留めておきたいものだってあるんだ!分かったら返せよ!」
「……君だって、分からないくせに」
ぎりっと唇を噛み締めて、アメリカは彼の前に翳した写真を口元に持っていく。何のつもりだと怪訝そうに眉を顰める彼の目の前で、写真の端に歯を立て――横に、引いた。
「――――――――!!」
びっ、と音を立てて、写真が縦方向に、ちょうど映り込んだ二人を裂くようにまっすぐ千切られる。驚きに固まるイギリスの前で、アメリカは写真の端切れを手の中で回しながら、何度か歯を使い千切っていく。
ぱらぱらと床に落ちる残骸を呆然と見詰めるイギリスを開放して、アメリカはフンと鼻でせせら笑った。
「形あるものは壊れちゃうもんなんだよ、イギリス。そろそろ現実を見たほうがいいんじゃないのかい?」
「…………、なんで、」
ぽたり、と。赤い絨毯に丸い水玉ができた。ぽたり、ぽたりとそれは数を増やし、染みが広がっていく。イギリスの翠の瞳から溢れた涙は、頬に零れ顎を伝いぽたりぽたりと床に滴っていく。
震える手で細切れになった写真のひとつひとつを集めたイギリスは、ひく、と小さくしゃくりあげて、アメリカを見上げた。
その顔が、あの雨の厭な記憶を呼び覚まして、ずきり、とアメリカの胸を鋭く抉る。それでも無言で睨みつけると、イギリスはぐいと涙で濡れた頬を無造作に拭って、ぎりっと強い眼差しを向けた。
「お前なんか大嫌いだ!もう顔も見たくねぇ!」
「奇遇だねイギリス、俺も心からそう思うよ!早く俺の前から消えてくれないかい。――くたばれイギリス」
息を飲んだイギリスの目から、新たな涙がはたはた零れ落ちていく。彼の心を深くえぐったことにはっと気付くけれど、今さらもう遅い。
違う、そんなこと言いたかったわけじゃない。唇を噛んで俯いて、顔を上げた時には、既に彼の姿は消えていた。
作品名:君がここで笑ってくれること 作家名:小鳥遊ちとせ