まといつくよ
庭に出て草木に水を遣っていた香港に、イギリスが声をかける。まなこはどこか眠たげで、ぺたりと撫でつけられた髪の毛はまだ彼が起きたばかりであることを示していた。香港はホースを握るその手はそのままに、顔だけをそちらに向ける。
「Good morning. 起きたんスか」
「あぁ…」
まだぼうっとしているイギリスの肌はしっとりと汗ばんでいた。おぼろげに庭の様子を見回して、一言「夕方は涼しいんだな」と誰に言うわけでもなくつぶやいた。香港は暑さのひいた六月の庭で、同じみどりの目をしたイギリスを視界の端にとらえながら、蛇口を捻る。きゅっと甲高い音のあとに草木のざわめきが響いた。
「これか」
ふと足を止めたイギリスの視線の先に、白い花がほころんでいた。六枚の花弁からなるオフホワイトを、青々とした葉が取り囲んでいる。
「梔子っスね」
「クチナシ? 香りが強いな」
だけど嫌いではないようで、ついと伸ばした指先でその白に触れる。手袋をしていないその手は色素が薄く、暗くなりはじめた庭で花と同じようにぼんやりと浮いている。紅茶を淹れるとき、或いは薔薇の手入れをするときのような繊細な手つきだった。
「よければ切って飾りましょーか」
彼が薔薇をそうするように、という意味をこめて香港が訊ねたが、イギリスはいい、とそれを制す。「香りが強いから家の中に持ち込んだらあてられるぞ。このままのほうがいいだろう」
それにせっかく咲いた花だから、と。
彼が愛でる花たちはこうやって、たいせつに育てられてきた。綺麗な花を咲かせるためなら、きっとその手に傷がつくのは厭わないのだろう。だってさっき見た手に、引っかき傷がついているのを香港は見逃さなかった。そしてその手が、眠っている自分の髪を梳いて、頬に触れられるのを、香港は知っている。意識があるときにはけっして触れてこないその手が、眠っている香港に伸ばされるのは何故なのだろう。
夜が近づいている。草木の陰は濃さを増していた。もう聞こえない蝉の声、風の音が強くなっている。
「…今日は少し冷えるから、もう入りましょう」
まだ花が気になるらしいイギリスに声をかけて促す。しばらく花を見ていたが、すぐに踵を返して家へと戻っていった。
きっと今夜は冷える。そうだ、今夜はこの遠くからの客人に温かいスープを作ってあげよう。食後には久々に彼の淹れた紅茶が飲めるかもしれない。ふわりと甘いミルクティーを淹れるのが、彼は得意なのだ。そうして眠って明日起きる頃には、少しはこの胸の寄せ波も気にならなくなっているのだろう。
20100331
『まといつくよ』