日輪と。
偶然つけたテレビでは遠い遠い東の島国に関する特集をやっていた。
とくに急ぎの仕事もなく手持ち無沙汰に眺めていた視線がある一瞬に音を立てて凍る。
ブラウン管に映し出された景色の中、映るはずのない人の姿を見たような。
――そんな気がして。
「それで、こんな遠くまで遊びにいらしたんですか?」
呆れたように笑って、一分の隙もない着物姿の日本が言うのにトルコは「だってよぉ」と唇を曲げた。
この国の夏はトルコのところより、気温は低い代わり湿度が高い。汗なのか夏の空気が孕む湿気なのか
わからないものでベタつく背中が不快で顔を顰めていると、謀ったようなタイミングで茶が差し出される。
鮮やかなペリドット色の茶は氷も浮かべていないのに驚くほど冷たくて、砂糖を入れることを
考え付くより先にすっかり飲み干してしまっていた。腹に落ちる清涼感、口に残る僅かな苦味。
なるほど、たまにはこういう茶もいいものだ。
粘性のある湿気た風が軒先の空気を僅かに揺らす。右から左へと熱の塊が動くだけの風は、涼を取るには
到底足りない。ちりん、と、冷たく澄んだ音がするのは、せめて聴覚だけでも暑さから逃げようとする
この国の努力の賜物だろうか。
「びっくりするほど似てたぜ、マジで。あ、ごちそうさん」
「お粗末様です。ですけどその方、演舞を披露されていたんですよね? それもトルコさんが
ご覧になるような、国際的な番組で。……自分で言うのも何ですが、私に似ているような若造では
役者不足ではありませんでしたか?」
「いいや、全然。っつうか、別に若造じゃなかったしな」
「……は?」
冷茶のおかわりと同時に差し出された茶菓子は、擦りガラスの欠片のような形と色をしていた。
日本の出すものに間違いはあるまいと、警戒もせず口に放り込みながら言えば漆黒の視線が
少しだけ訝しむ色を増したようだった。
「何つーか、半分白髪のごま塩頭で髭もじゃで下っ腹の出たおっさんだったぜ」
「…………返していただけます、それ」
「ちょ、ちょっと! ちょっと待てって人の話は最後まで聞きやがれってんだい!」
柔らかな笑みを顔に貼り付けたまま、す、と茶菓子の皿を奪い返そうとするのを必死で留めながら
トルコは喚く。結果として薄甘い茶菓子は死守したものの、『ごま塩頭の髭もじゃのメタボ体型な中年』に
良く似ていると言われた日本の顔には相変わらず直視するのが怖い類の微笑が浮かんだままだ。
日本は自分の外見にあまりこだわりのある方ではない――少なくともフランスのようには――方だと
思っていたトルコだが、それでも絶対的に許せないラインはしっかり存在するらしい。
これは肝に銘じておく必要があるなと内心に思いつつ、トルコは改めて口を開いた。
「外見なんざどうでもいい。目だよ、目」
「目?」
「刀ぁ構えたときの目がな。そっくりだったんだよ、あんたに」
サムライの目だ。
そう言って、皿の上の擦りガラスもどきをまた一つ口に放り込む。
薄い外殻を噛み砕けば、中からは僅かに薄荷の香りを纏ったゼリーが溢れた。
すっきりとした甘さはロクムの味に慣れたトルコにとって物足りないものだったが、
この国の夏の濃厚な空気にはこれぐらいの方が合っているのかも知れない。
りぃん。
深い森の奥で湧く泉のような、冷たく澄んだ鉄鈴の音。
じっとりと湿った夏に、酷く不似合いで同時に酷くしっくりと馴染む。
トルコが見たテレビ番組に、映っていたものは袴姿で日本刀を構える男だった。
低く腰を落とし、鞘に収まったままの刀の柄に手をかける中年男には隙というものがほとんどない。
静かに前方へと投げられた視線の先には試し切り用のガラス瓶が無造作に立てられていたけれど、
あの男は、その同じ場所に人間の首があっても全く同じ静かな視線を投げかけそうだと薄く思った。
――どこかで。
どこかで、これと同じ眼差しを俺は目にしたことがある。
男の刀が、一瞬で分厚いガラス瓶を真っ二つにするところを瞬きもせずに見つめてトルコは気づいた。
そうだ、『アレ』だ。この男の目は、『アレ』に似ている。とてもよく。
それが何の番組だったのか。何を目的として配信されていたのかは最早どうでもいいことだった。
極言すれば、その男の見せた剣技が剣道か居合か、すらトルコにとってはどうでもいい。
害のない笑みを浮かべて曖昧に頷いたり拒絶したりしてみせる、あの極東の友人が時折纏う
剃刀のような表情や視線。あの男が、あの男の刀を手にしたならその迫力はいかばかりだろうかと。
そんなことばかりを考えて心浮き立つうち、気がつけばトルコは向こう一週間の予定を完全に
空白のものとしていた。
何かと安全管理にうるさいこの時勢、手荷物に【帝国】時代からの愛剣を詰め込まなかっただけでも
この鋼鉄の理性は褒められていいとトルコは思う。
思って、そして思った通りを口にすると日本は一度目を瞬かせた。
「……あなたは」
まるで、恋でもしているような顔ですよ。
困ったような微笑と声音で形作られた言葉に、喉の奥の方で少し笑った。
「やっぱ面白ぇなぁ、あんた」
「そうですか?」
「俺にそんな事を言ったのは、あんたで二人目だ」
「おや、それは残念……どうせなら、栄えある一人目になりたかったところです」
冗談とも本気ともつかない顔で言ってのける。
飄々としたその表情が、一人目に同じことを言った相手ののそれと重なって
トルコはどうにも笑いを堪えるのに苦労した。
洋の東西を問わず、古狸の醸し出す雰囲気はどうしてこうも似通うのだろう。
「女に不自由した覚えはねぇんだけどな」
「なら、貴方が女性に求めるものは恋慕の情とは違うのでしょう」
抜け抜けと。
未だかつて、この瞬間のこの男以上に、この単語の似合う人物に出会ったことがあっただろうか。
……あったかもしれない。思い出すのは、甘ったるそうな色の肌をした旧い知人のことだった。
あの小柄な年齢詐称の老人と言い、並んで座る年上の友人と言い、……。
喉を鳴らしてトルコは笑う。
どこか油断のならない漆黒の双眸でトルコを見下ろしたまま、極東の島国も少し笑った。
「否定はなさいませんか」
「する意味があるのかい?」
問いに問いで返せば、童顔を加速させている大きな黒い目が、きゅ、と細まった。
反対に瞳孔は丸く広がって、トルコはその目に宿るものの正体を知っている。
黒い癖毛の、翡翠色の眼をしたいきものが閃かせるのと同じものだ。
あれよりも随分と大人しい、控えめな煌きだったけれど、常に穏やかな日本の双眸に
ちらりと浮かんだ挑戦的で……そして好戦的な色はトルコの血を騒がせるのに十分過ぎた。
「……困ったな」
「何がです」
自分はただ遊びに来ただけで、彼を困らせるつもりなど小指の先ほどもなかったのだけど。
そんなつもりはなかったのに、そんな顔をされて、しまったら。
困った。
もう一度呟いて、トルコは無防備な姿勢で座り込んだまま日本を見上げる。
「あんたの剣が見たい。……見たくなった」
大人しく鞘に収まった刃でなく、かたちの美しさだけを競う演舞でなく。
お前の揮う『剣』が見たいと。
とくに急ぎの仕事もなく手持ち無沙汰に眺めていた視線がある一瞬に音を立てて凍る。
ブラウン管に映し出された景色の中、映るはずのない人の姿を見たような。
――そんな気がして。
「それで、こんな遠くまで遊びにいらしたんですか?」
呆れたように笑って、一分の隙もない着物姿の日本が言うのにトルコは「だってよぉ」と唇を曲げた。
この国の夏はトルコのところより、気温は低い代わり湿度が高い。汗なのか夏の空気が孕む湿気なのか
わからないものでベタつく背中が不快で顔を顰めていると、謀ったようなタイミングで茶が差し出される。
鮮やかなペリドット色の茶は氷も浮かべていないのに驚くほど冷たくて、砂糖を入れることを
考え付くより先にすっかり飲み干してしまっていた。腹に落ちる清涼感、口に残る僅かな苦味。
なるほど、たまにはこういう茶もいいものだ。
粘性のある湿気た風が軒先の空気を僅かに揺らす。右から左へと熱の塊が動くだけの風は、涼を取るには
到底足りない。ちりん、と、冷たく澄んだ音がするのは、せめて聴覚だけでも暑さから逃げようとする
この国の努力の賜物だろうか。
「びっくりするほど似てたぜ、マジで。あ、ごちそうさん」
「お粗末様です。ですけどその方、演舞を披露されていたんですよね? それもトルコさんが
ご覧になるような、国際的な番組で。……自分で言うのも何ですが、私に似ているような若造では
役者不足ではありませんでしたか?」
「いいや、全然。っつうか、別に若造じゃなかったしな」
「……は?」
冷茶のおかわりと同時に差し出された茶菓子は、擦りガラスの欠片のような形と色をしていた。
日本の出すものに間違いはあるまいと、警戒もせず口に放り込みながら言えば漆黒の視線が
少しだけ訝しむ色を増したようだった。
「何つーか、半分白髪のごま塩頭で髭もじゃで下っ腹の出たおっさんだったぜ」
「…………返していただけます、それ」
「ちょ、ちょっと! ちょっと待てって人の話は最後まで聞きやがれってんだい!」
柔らかな笑みを顔に貼り付けたまま、す、と茶菓子の皿を奪い返そうとするのを必死で留めながら
トルコは喚く。結果として薄甘い茶菓子は死守したものの、『ごま塩頭の髭もじゃのメタボ体型な中年』に
良く似ていると言われた日本の顔には相変わらず直視するのが怖い類の微笑が浮かんだままだ。
日本は自分の外見にあまりこだわりのある方ではない――少なくともフランスのようには――方だと
思っていたトルコだが、それでも絶対的に許せないラインはしっかり存在するらしい。
これは肝に銘じておく必要があるなと内心に思いつつ、トルコは改めて口を開いた。
「外見なんざどうでもいい。目だよ、目」
「目?」
「刀ぁ構えたときの目がな。そっくりだったんだよ、あんたに」
サムライの目だ。
そう言って、皿の上の擦りガラスもどきをまた一つ口に放り込む。
薄い外殻を噛み砕けば、中からは僅かに薄荷の香りを纏ったゼリーが溢れた。
すっきりとした甘さはロクムの味に慣れたトルコにとって物足りないものだったが、
この国の夏の濃厚な空気にはこれぐらいの方が合っているのかも知れない。
りぃん。
深い森の奥で湧く泉のような、冷たく澄んだ鉄鈴の音。
じっとりと湿った夏に、酷く不似合いで同時に酷くしっくりと馴染む。
トルコが見たテレビ番組に、映っていたものは袴姿で日本刀を構える男だった。
低く腰を落とし、鞘に収まったままの刀の柄に手をかける中年男には隙というものがほとんどない。
静かに前方へと投げられた視線の先には試し切り用のガラス瓶が無造作に立てられていたけれど、
あの男は、その同じ場所に人間の首があっても全く同じ静かな視線を投げかけそうだと薄く思った。
――どこかで。
どこかで、これと同じ眼差しを俺は目にしたことがある。
男の刀が、一瞬で分厚いガラス瓶を真っ二つにするところを瞬きもせずに見つめてトルコは気づいた。
そうだ、『アレ』だ。この男の目は、『アレ』に似ている。とてもよく。
それが何の番組だったのか。何を目的として配信されていたのかは最早どうでもいいことだった。
極言すれば、その男の見せた剣技が剣道か居合か、すらトルコにとってはどうでもいい。
害のない笑みを浮かべて曖昧に頷いたり拒絶したりしてみせる、あの極東の友人が時折纏う
剃刀のような表情や視線。あの男が、あの男の刀を手にしたならその迫力はいかばかりだろうかと。
そんなことばかりを考えて心浮き立つうち、気がつけばトルコは向こう一週間の予定を完全に
空白のものとしていた。
何かと安全管理にうるさいこの時勢、手荷物に【帝国】時代からの愛剣を詰め込まなかっただけでも
この鋼鉄の理性は褒められていいとトルコは思う。
思って、そして思った通りを口にすると日本は一度目を瞬かせた。
「……あなたは」
まるで、恋でもしているような顔ですよ。
困ったような微笑と声音で形作られた言葉に、喉の奥の方で少し笑った。
「やっぱ面白ぇなぁ、あんた」
「そうですか?」
「俺にそんな事を言ったのは、あんたで二人目だ」
「おや、それは残念……どうせなら、栄えある一人目になりたかったところです」
冗談とも本気ともつかない顔で言ってのける。
飄々としたその表情が、一人目に同じことを言った相手ののそれと重なって
トルコはどうにも笑いを堪えるのに苦労した。
洋の東西を問わず、古狸の醸し出す雰囲気はどうしてこうも似通うのだろう。
「女に不自由した覚えはねぇんだけどな」
「なら、貴方が女性に求めるものは恋慕の情とは違うのでしょう」
抜け抜けと。
未だかつて、この瞬間のこの男以上に、この単語の似合う人物に出会ったことがあっただろうか。
……あったかもしれない。思い出すのは、甘ったるそうな色の肌をした旧い知人のことだった。
あの小柄な年齢詐称の老人と言い、並んで座る年上の友人と言い、……。
喉を鳴らしてトルコは笑う。
どこか油断のならない漆黒の双眸でトルコを見下ろしたまま、極東の島国も少し笑った。
「否定はなさいませんか」
「する意味があるのかい?」
問いに問いで返せば、童顔を加速させている大きな黒い目が、きゅ、と細まった。
反対に瞳孔は丸く広がって、トルコはその目に宿るものの正体を知っている。
黒い癖毛の、翡翠色の眼をしたいきものが閃かせるのと同じものだ。
あれよりも随分と大人しい、控えめな煌きだったけれど、常に穏やかな日本の双眸に
ちらりと浮かんだ挑戦的で……そして好戦的な色はトルコの血を騒がせるのに十分過ぎた。
「……困ったな」
「何がです」
自分はただ遊びに来ただけで、彼を困らせるつもりなど小指の先ほどもなかったのだけど。
そんなつもりはなかったのに、そんな顔をされて、しまったら。
困った。
もう一度呟いて、トルコは無防備な姿勢で座り込んだまま日本を見上げる。
「あんたの剣が見たい。……見たくなった」
大人しく鞘に収まった刃でなく、かたちの美しさだけを競う演舞でなく。
お前の揮う『剣』が見たいと。