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新月と。

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緊張は、長くは続かなかったと思う。

「……なーんて、な」

男がそう言って笑ったので、一瞬だけ張り詰めた空気は綺麗に霧散する。
日本は大きく息を継ぎ、男の気紛れが去ってくれた幸運に感謝した。

「心配すんねぃ。あんたに喧嘩吹っかけようなんざ思ってねえよ。
 俺もあんたも、ヤンチャするにゃちっと歳寄りになり過ぎちまったなぁ」
「ふふ……全くです」

しがらみって奴は面倒臭くて仕方ねぇ。
外見に似合わない、子どものような膨れっ面に、日本は思わず笑みを零した。
日当たりの良い縁側に丸太のような身体を転がすその姿、完全に警戒を解きかけた矢先に
男は、だけど。

「昔の俺なら」

低いその声に、背筋を何かが駆け抜けていくのを感じて。
思わず見下ろした仮面の奥で、鳶色の目は再び物騒に光っている。
獲物を見つけた猛禽類の眼だ、と日本は思う。
遮るもののないあの高くて遠い青を、我が物として占有するあの王者の風格。
彼が大きな嘴と鋭い鉤爪を持つ鳥ならば、己はでは何だろう。敢え無くその爪に引き裂かれる野鼠か?

――否。

否、と叫ぶ、己がいる。
身の奥に。

「腕一本、足一本くれてやったって構わねぇから真剣で、っつったろうな」
「……」

咄嗟に。昔の話でしょう、と。
答えることができなかったのは、何故だ。
五百年も前に誇った金色の名残りを、確かに今も宿し続ける双眸に射竦められたからでは多分なかった。

この足が動かないのは竦んだせいではなく、
盆を持つ両手が震えるのは怯えのためではない。

「その目」

仮面の奥から、真っ直ぐに己を見据える視線がある。どこか恋焦がれるような熱を孕んだその視線を、
どうやら今日は跳ね返すことができそうにない。僅かな血臭が鼻先を掠めて日本は強い眩暈を覚えた。
眩暈。酩酊感、と言った方が、より事実に即していたかも知れない。

「その目だ。黒いくせに、光りやがる。
 知ってるか? 月のない夜よりも、陽が上る少し前の方が闇が濃い」

彼の国旗に描かれた新月のように、男の唇が弧を描く。
覗くのは鮮やかに肉色をした厚い舌と、煙草の習慣が少し色を染み付かせた歯。
犬歯の鋭さだけは疑いようもなくて、気がつけば喉を鳴らしている。


――ああ、あなたが悪い。あなたは悪い、ひとだ。そんな顔をされてしまったら、私は。私も。


この足が動かないのは、己の裡にある獣が獲物を逃すなと叫ぶからだ。
この両腕が震えるのは、手に馴染む鋼の重さを捜したがっているせいだ。
わたしは、わたしたちは、どうしようもなく。

「暁闇に散った臓物の臭いを覚えてるかい?」

獣、などではない。
獣ならば、獣ですら、傷つくことを恐れるぐらいの知恵は働く。
それができない私たちは、では何だ。

トルコの問い掛けに答えず小さく息を吐いて、わざとゆっくり踵を返した。
残念そうなトルコの視線が、背に刺さるのを日本は感じる。感じながら、考えていた。
覚えている、覚えているかだって?

愚問にもほどがあった。思い出そうとすればあの噎せ返るような臭いはこの瞬間にも鼻腔に蘇る。
降り続く雨でも消せないような、或いは炎に焦げて乾いていくあの生臭さ、あの虚ろ。
届かないものに手を伸ばしていた彼らの姿なら、今もこびりついたまま離れない。

「……あなたは」
「んー?」

彼らには二度と許されないものが、己にはまだ残されている。
そのことを思い出すたび、日本はもういない誰かの面影を瞼の裏に見た。
夏の日差しのためだろうか、今日はその影がやけに濃い。

生のはじめと死の終わりにある暗がりを、誰もがその生き様で照らし出していたような時代。
渦中にあったときは喜びなどよりも泥塗れの絶望が深かった。
大切なものを、日本もトルコも多く失くしている。

それでも、ふ、と。

「…………いえ」

まるで恋でもするように、あの時代を思い出すことがある。
貴方もまた、そうなのですか。
訊きかけて日本は唇を閉じ、小さく首を振った。上げた顔には、既にいつもの曖昧な微笑を戻して。
恋だったとしても、それは決して口にはできない……してはならない恋だった。

決して口にはできないからこそ、募る業ばかりが深いのだと知っている。

「休暇をとって来られたということは、もう何日かこちらに?」
「ああ。つっても特に予定はねぇけど」
「ふむ……でしたら、数日、筋肉痛になっても構いませんよね?」

きょとんとした視線を視界の隅に感じながら、小皿の上に一つ残った琥珀を摘まみ齧る。
仄かな薄荷の香と薄甘い寒天が、乾いた舌に心地良かった。
自然と柔らかさを増す微笑みをそのままに小さく首を傾げて見せた。

「練習用の木刀でよろしければ、お手合わせいたしますが」

いかがですか?

言葉の意味を理解した瞬間に破顔するトルコの様子を見れば、答えは言を待つまでもない。
期待には応えなければならないだろう。少なくとも、刀を触り始めて五十年も経たないような
『ひよっこ』と比較して失望されるようなことだけは、あってはならない。

「誰が筋肉痛なんぞになるかよ」

くらりと香る血の記憶は未だ鼻腔の奥に残り、夏の日差しは変わらず深い影を縁側に落とし込んでいて、
そして、舐めんな、と、悪童の顔でトルコが笑う。
その笑みが、まるで今日の空に広がる青のようだったので。

「あんたこそ、年寄りの冷や水には気をつけろってんだぃ」

トルコらしい軽口をまたひとつ硬く心に刻み付けながら、日本は敢えて言及しない。
彼の機嫌を損ねてしまわないための日本らしい奥ゆかしさ故――では、決してなくて。

「お手柔らかに、お願いします」

たとえ後に待つ筋肉痛と関節痛の地獄を知っていようとも、守らなければならない矜持がある。
己に強く言い聞かせて、日本は今度こそ盆と茶碗を片付けるべく、縁側に寝そべるトルコに背を向けた。
作品名:新月と。 作家名:蓑虫