初恋
夕暮れの中に立つ男と、朝焼けの下で眠る男がまったく別の生きものに見えるのは、一体どうしてなんだろう。西日を反射してきらきら光る静雄の髪を眺めながら彼女は考える。もっとも、朝陽の中で眠っている彼を見たことなんてないのだけれども。もしそういう状況にであったら、きっと彼はとてもかわいい顔をしているだろう。きっと、なんにも知らないこどもの顔をしている。金色の髪と、無垢なかたちをした黒い眉と、ながい睫。うっすらと生えている髭に、動かない喉仏とか、そういうものを、彼女は容易に想像することができた。朝、眠っている彼を見たことがないのが嘘みたいに、少女の妄想の中の男はリアルな影と光を伴っている。
「静雄お兄ちゃん、今日が誕生日なんだってね」
彼の最も憎んでいる男から得た情報は、どうやら間違っていなかったのか、静雄は少し驚いた顔をしたあと、おう、と頷いた。「三十歳おめでとう。今日から、静雄おじさんって呼んでもいい?」
「嫌味か、それ?」と彼は眉をひそめてみせる。けれど笑っていた。茜もその反応に対して、微笑みをつくってみせる。
「じゃあさっきのスタンガン攻撃は、誕生日プレゼントってとこか?」
少女はさっと顔を赤らめて、うつむいた。夕焼け色に染まったアスファルト、二人分のかたちをした影。車通りの少ない住宅街。あたりには、どこかの家の夕食の匂いが漂っている。
「うん、そう。怒った?」
「まさか」
男は軽薄な感じで小さな笑い声をあげて、少女の頭に手を置いて髪の表面を軽く撫でた。昔とちっとも変らないそのしぐさが、今の彼女はもうあまり好きじゃなかったけれど、何も知らない従順なこどものふりをして恥ずかしそうに笑った。
「私、本当に、いつかおじさんを殺してみせるよ」
「そりゃあ困ったな」
「どうして?」
「だって、俺が死んだらノミ蟲をぶっ殺せなくなる」
安心して、私がかわりに殺してあげる。そう言うと、静雄は今度こそ本当にびっくりした顔をした。「やめとけよ、あいつ、死ぬぜ」、そうしてまじめな顔をしてそんなことを言った。それってまるで自分が死なないって言ってるみたい。茜はそう思ったが、口には出さなかった。だって悔しいじゃない? それから、何かに対して悔しいって思える、そういう人並みの感情が存在していたことに、彼女は自分でおどろいた。
「まあ、あいつは俺がこの手で必ずぶっ殺すからよ、アカネが気にすることなんてねえよ」
そう言って笑って、男は再び少女の頭に手をやって、髪をくしゃくしゃにかきまぜた。「もう、やめてよ」。くすくすと笑って肩をすくめてみせる。短いスカートの、プリーツが揺れて、女の脚が夕陽に染まった。
十六になって、世界のほとんどが、もうすっかり自分のものになってしまっても、西日のよく似合うこの男だけが、どうやっても私のものにならない。