ヒズ・リーズン
雨脚が強くなり、雨粒が廊下に降り込んだ。エレンは立ち上がって震える手で突っかい棒を外し、雨戸を低く下ろす。薄暗くなった廊下に雨戸を打ち付ける激しい雨音だけが響く中で、背を向けたまま静かに尋ねた。
「ハリードにとってさ、姫って何?」
ずっと、聞きたくて、でもずっと聞けずにいた。
今も、できることならこの場から逃げ出したかった。しかしその思いと同時に、はっきりさせたいという気持ちがあった。生殺しのような不安な気持ちを抱えたままで、最後の戦いはできないと覚悟を決めたのだ。
少しの沈黙の後、ハリードは言った。
「おれにとって、姫は故郷のゲッシアそのものだ。だが、故郷は、もうない」
その言葉でエレンはすべてを悟った。
この人は今もなお、自責と絶望の渕をさまよっているということを。
ハリードを絶望の渕から救い上げることができるの人物は、たった一人、ファティーマ姫だけである。しかしハリードは、奇跡でも起こらない限り姫に会えることはないとすでに諦めているのであろう。
だからハリードは、いなくなったサラに姫を思い重ね、そのつぐないをしたいのだ。
それが、おれ自身のために来た、という理由であろう。
「そっかあ」
黒ずんだ雨戸の木目をぼう然と見つめながら、やっとの思いでエレンは言った。
すぐ後ろにいるハリードが、とても、遠くに感じられる。
ここで、
『命を捧げても構わないって、なんなのよそれ。いくらサラが戻ってきても、あんたが死んじゃえば同じよ。あたしは誰も失いたくないの。あんたが死ぬことで姫が喜ぶとでも思ってんの? 過去の人のことよりも、今のあんた自身の幸せを考えなさいよ。死なないで、絶対に死なないでよ』
と、怒鳴ることができればよかった。
エレンにはそれを言う権利がある。いや、ハリードに死を思い止まらせるためには、是が非でも言うべきであった。
しかし、それを言うには分かりすぎてしまった。
一人、生き抜くという醜よりも、大義名分のある戦いの中で華々しく命を落とすという美を、哀しいほどにハリードは望んでいるということを。
もしハリードが姫を探し出せていたら、ピドナのシャールのようにどこかでひっそりと姫を守っていくことに、新たな生き甲斐を感じていただろう。が、見つけることができなかった彼は、死にそこねただけとなった。
神王教団との戦いに敗れ、主人である王や大事な部下、多くの民が死んだ以上、将であった自分がなりゆきとはいえ、一人おめおめと生きていることをずっと恥辱のように感じていたのだ。
このままどこかでのたれ死ぬことは、あの世において主人や仲間や、自分を愛してくれた姫に合わせる顔がなく、ミカエルなどにトルネードだと看破されたときに浮かべた笑みも、傲岸不遜な意味合いではなく、自らの境遇をあざ笑う自嘲的な笑みだったのだ。
それは、つまらない美意識かも知れない。誤謬であるかも知れないし、彼が頑ななまでに貫き通そうとしているその信条は狭隘かも知れない。しかしそれは、守るべき国を、主人を、愛した人を失った、敗将トルネードしてのけじめであろう。
彼は、誇り高い砂漠の戦士なのだ。
そこまで分かってしまった以上盲目的に、「死なないで」とは言えなかった。死んでほしくないというのはエレンの望みであって、ハリードの望みではない。
認めたくないけど、叫びたいくらいに嫌だけど、ハリードのために、ハリードが望むことを理解してあげたかった。
ぼろぼろに打ちのめされた心を無理に奮い立たせ、エレンは勢いよく言った。
「だけど、だけどあたしだってあんたやトムに負けないからね。なんてったって、サラはたった一人のあたしの大事な妹だもん」
「……そうだな」
ハリードの声に、やさしさがにじんだ。だが、振り返ることはできなかった。
「トムたち遅いね。ちょっと見てくるよ」
ハリードが返事をする前に体をひるがえして階段へと向かう。真後ろにあった椅子はエレンに押しのけられて床と擦れ、まるで何かの悲鳴のように甲高くきしいだ。
が、構わずに階段を駆け下りる。早くハリードの視界から消えたかった。
表に飛び出したエレンは肩で息をしながら、目の上に手をかざしてゆっくりと二階の窓を見上げた。雨はますます激しさを増し、叩きつけるような驟雨である。
ハリードはずっと死に場所を探していたのかも知れない。
エレンに出会う前も、出会ってからもその思いは変わることなく、旅を共にし、道を同じくしても、まったく別のものをその先に彼は見つめていたのかも知れない。
帰る場所を持たない流浪の寂しさの中でトルネードとしての面目を取り戻すため、死が生きる目的となっていたのだ。けれど――。
「ずっとそんな風に思ってたんだったら、『ついて来い』だなんて無責任なこと言わないでよ」
どしゃ降りの雨に打たれながらエレンは震える瞳を閉じた。
──終──