グッドモーニング・コール
午前六時起床。大河の一日は、レースのカーテンから差し込む微かな朝陽と、美しいモーツァルトの調べから始まる。
クラリネット五重奏曲。
「おはようございます、大河坊ちゃま」
「、……おふぁよう」
流れる曲を背景に、伸びをして身体を起こす。欠伸をひとつ、涙の滲む大きな瞳を両手で擦って服を脱ぐ。脱いだ寝間着の片付けはメイドに任せ、制服に身を包んで完全覚醒。
正直を言えば、まだ少し眠い。眠いが、どうにか頭を切り替えて、早々に部屋を飛び出す。
「それじゃ、温室に行ってくるね!」
「あっ、ちゃんとお顔を洗ってからにしてくださいね!」
「わかってる!」
大河内家の屋敷に、ぱたぱと軽やかな足音が響き渡る。
玄関を出てすぐの庭園を右に抜けると、銀のフレームに覆われた温室が見えてきた。
「おはようっ」
「おはようございます、坊ちゃん」
各国各品種、色とりどりの薔薇が一年中咲き誇るこの温室は、大河内大河自慢の薔薇園だ。
小さな腕に大きな籠を抱えながら、大河は庭師の元に駆け寄る。
「今朝はいかが致しましょうか?」
「そうだね…ヒムロの演出用にいつもの薔薇を数本、あと、部屋にも何本か活けて貰おうかな」
「かしこまりました。では、今朝咲いたばかりのものを部屋にお持ちしましょう。あとはいつものように」
「うん、ありがとう」
パチン、パチン。用意した籠に薔薇の首が落ちていく様子を、大河はじっと見届ける。
ごめんね。でも、きっと綺麗に撒いてあげるからね。
花弁をむしられ、撒き散らされる姿に思うところがないでもない。しかし、氷室のために輝き散るのなら、花もきっと幸せだろう。いやそうに違いないと、大河は堅く信じているのであった。
ああ、無邪気とは時に残酷である。
食堂から台所の扉をくぐると、そこには既に香ばしいブイヨンの香りが漂っていた。
「おはようー!」
「おはようございます、大河坊ちゃま。ちょうど今、お湯を沸かしているところですよ」
調理台の向こうから見え隠れする小さな頭に笑いかけ、メイドは奥のコンロを指差した。火にかけられているのは前日に仕込まれたスープ鍋と、水を入れられたステンレスのケトル。
「ありがとう。朝ごはんのほうはどう?」
「スープは坊ちゃまが前の晩にほとんど済ませてくださいましたし、オムレツとソースも出来ています。あとはサラダと、盛り付けが…」
「じゃあ、急いでサラダを作っちゃうね。君は食器の用意と盛り付けのほうをお願い。あとは豆を挽いてドリッパーとカップを用意して、っと」
手を洗い、ざくざくと野菜を切ってポテトと一緒に皿の中に盛り付ける。合間に珈琲豆の瓶を取り出し、電動ミルに入れてスイッチを押す。豆を挽き、フィルターをセットし終える頃にはお湯が沸騰。
「大河坊ちゃま、今日は何だかお急ぎになられるんですね。いつもはもう少しゆっくりされていると思うのですけど…」
「うん。今朝はちょっと冷えるからね。ヒムロがぐずるんじゃないかと思って」
「ああ…朝に弱いですからね、あの方は。」
「だからいつもより早く起こさなきゃと思って。僕が起こさないと、ヒムロは起きてくれないし…」
予め温めておいたカップに珈琲を注ぎ終え、大河はドリップポットを台に下ろす。
台所から調理場を覗けば、テーブルの上には出来上がった料理と食器が並び、準備は万端。あとは彼を呼ぶだけですねと、優しくメイドが微笑んだ。
「パンは私が用意しておきますから、大河坊ちゃまは冴木さんを起こしてきてあげてください。 はい、どうぞ。足元にお気をつけくださいね」
「うんっ!」
カップとソーサーの乗った盆を受け取り、大河はくるりと回れ右。
時刻は七時十五分。目指すは執事、冴木氷室の部屋。
エントランスホールからすぐの階段を二階に上がり、奥に進んで右に曲がった廊下の突き当たりに、冴木氷室の部屋はある。
別名、茨の森。大河内大河以外の人間がその部屋に踏み入り、氷室の眠りを妨げようものなら、もれなく彼の魔性によって骨抜きのペッペケペーにされ、二度と普通の世界に戻れなくされてしまうという曰くつきの部屋である。事実、犠牲になった使用人の数は一人や二人ではない。
ドアノブを捻り、身体で押して扉を開く。空調で暖められた部屋。サイドテーブルに盆を置き、バルコニーに続く窓のカーテンを開ける。天蓋ベッドの垂れ幕もベッドフレームで縛り、全体に光を取り入れる。明るくなる瞼に氷室が身じろぎしたところで、ようやく声をかけた。
「おはよう、ヒムロ」
氷室はベッドの中で身体を丸めながら、
「……タイガ坊ちゃん…?」
「そうだよ。ヒムロ、もう朝だよ、起きなくっちゃ」
「…あと三十分だけ眠らせてください」
「だーめだったら。ほら身体を起こして、コーヒー飲めば目も覚めるでしょ?」
「んん…」
麻のカバーに包まれた布団を引っぺがし、往生際悪く枕にしがみ付く氷室を無理やり起こす。起き上がった上半身、背を支えてやりながら、コーヒーカップを目の前に差し出す。
「熱いから、気をつけてね」
「……。」
無言で頷き、薄目のまま氷室は受け取ったカップを傾ける。珈琲の熱さはちょうど良いようで、啜る氷室の顔に不快そうな色は少しもない。
カップの中身が減るのに比例して、徐々に覚醒していく瞳。
空になったコーヒーカップが、再びソーサーの上に戻される。
「…坊ちゃん。服」
「うん、着替えだね。用意してあるからベッドから降りて、服を脱いで」
のろのろと着替え始める氷室の足元に、脱ぎ捨てられた寝間着が落ちる。それを拾って片付けながら、大河は箪笥から新しい着替えを引っ張り出す。
糊のきいたシャツに袖を通らせ、着替えの様子を眺めながら、
「いっつも思うけど、…ヒムロの肌って、本当に綺麗だよねえ」
しみじみ、というより惚れ惚れ、という風に呟く主人に、「そうですか?」と氷室。
「うん。綺麗な色で、ひんやりしてて…チョコレートみたいっていうか、甘い味がしそうだよね。良い匂いがするし」
「――舐めてみますか?」
「いいの?」
「チョコレートのように、溶けたあとの保障はしませんけど」
「え、」
ネクタイを締め、ベストを身に着けながらの氷室の台詞に大河は思い切り顔を歪める。子供だましにもならないような、馬鹿げた話である。だが、氷室ならひょっとして…と思ったりもしてしまうのだ。
もし氷室の肌を舐めた途端にそこが溶け出したら、自分は一生立ち直れそうにない。
頭を抱えだす大河を見やり、氷室は小さく笑みを零す。ぐるぐる回っているであろう頭をくしゃりと撫で、にこりと、
「冗談ですよ。」
「え、…じょ、冗談ってどっちが?!」
「どっちもです。 さて、食堂へゆきましょうか。せっかくの朝食が冷めてしまいますし、坊ちゃんの髪も結わなければなりませんしね。それと言うのが遅れてしまいましたが、」
「――おはようございます、タイガ坊ちゃん」
作品名:グッドモーニング・コール 作家名:くさなぎ