神主帰還祈願
手を伸ばすと、小さく笑う顔が返されたのは幼い頃。
強引に繋いだ手は、それでも離されることはなく、引っ張り回した挙げ句に、物静かな顔に時折笑いが漏れるのが嬉しかった。
子どもの頃の年上の相手と言えば、それなりに壁だの憧れだの、この頃にしては大きな人生経験の差に対して感じるものらしいが、自分が彼に対して感じていたのは専ら『傍にいてやらないと』だった。
感覚の鋭かったあの頃の彼に『やらないと』とは、今思えばお笑い草だが。
控えめで自己主張をしない彼は、お山の大将気質の自分にとっては、無意識の内に庇護の対象だったのかもしれない。
そういう自分に戸惑われることはあっても拒否されたことはなく、控えめな声音でありがとうと言われればそれもまた嬉しかった。
思うままに、望むままに傍にいた、あの頃。
差し出す手に、苦しそうな顔ばかりされるようになったのは高校の頃。
半年も待ったのに、やっと目を覚ました彼は、何も覚えていなかった。
そう、何も。
息せき切って駆け付けた病院の一室で、まっさらな、何も映さない表情に出迎えられて、話しかけても何も返らない空白に埋められて、自分はただただ、酷く茫然とした。
何にとしてでも取り戻したかった。
長い時間をかけて築き上げてきたものが一瞬にして消されてしまったのだと理解した瞬間に頭が沸騰して、事実を受け入れられなかった。
未知のものに対する軽い警戒と不思議そうな表情を見るのが耐えられなくて、随分しつこくしたのだと思う。
何か思いだすだろうと過去を語り、様々な思い出を見せ、町中を連れ回してはまた語った。
けれど彼の記憶は欠片も戻る様子はなく、彼の困惑は増すばかりだった。
それが、徐々に嫌悪と忌避にすり替わり、露骨に彼は自分を避けるようになった。
苦しめていたのだろう。
自分は、結局、自分のことしか考えていなかったのだと思う。
記憶を取り戻せないままなんて不幸だ。
大切なものを失ったままだなんて、どれほどに辛いだろうか。
そう思ったからこその行動だったが、それは、自分の辛さを彼に投影しただけだった。
昔の、自分が知っている彼ならば辛いだろう。
けれど、その時の彼がどんな風に辛いかなんて、想像もしなかった。
苦しめていたのだ。
苦しめて、いたのだ。
いつしか、顔を合わせれば眉間にこれでもかというほどに皺が寄るのが常態となった。
過去の欠片は何一つ戻らないまま、離れて過ごす時間も挟んで、すっかり二人の関係は変わってしまった。
そして、今、どこか昔を取り戻した彼は、
わからない。
人生の、幼いころの半分を過ごした彼が、自分は大切だった。
取り戻したいとずっと思っていた。
けれど、それ以降の半分を過ごした彼も、現実なのだ。
本物なのだ。
失った時間以上を、今の彼として過ごしてきたのだ。
自分にとっていくら大切で懐かしかろうと、彼にとっては、神無月にとっては、どちらが大切で本当なのだろうか。
どちらを求めるのが、彼にとって苦しくないのだろうか。
わからない。
わからないけれど。
目を閉じれば脳裏に帰ってくる姿は、いつも控えめな笑みを浮かべていて、幼いころから本当にそれを大切に思ってきた。
けれど、今、ここまでの時間を過ごしてきた彼のことも、失われていいはずがない。
神無月。
帰ってこい。
お前が、どんなお前が戻ってきたのだとしても、お前はお前だ。
戻ってきたお前が、お前なんだ。
神無月。
帰ってこい。
2012.10.10