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幸せ者の敗北宣言(353)

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「あれ、やよちゃん?」

訊ねた弟の部屋の玄関先に立っていたのは、Tシャツにスウェット姿の幼馴染みの青年だった。

「こんにちは、皐月くん。卯月は留守?」
「あー、うん……。今朝は早い時間の約束があるからって」

いつもより少しぼんやりした反応に、寝起きだろうなと想像がつく。

「そうなんだ。まあ、僕も何も言わずに来ちゃったのがいけないんだけど」
「うーちゃんに何か用事だった?」
「大した用じゃないよ。この前差し入れしたお夕飯のタッパーを引き上げにね」
「あ、それ多分わかる。ちょっとその辺で待ってて。出してくるから」

そう言って部屋の中に戻った皐月に、弥生は小さく肩を竦めて続いた。

「皐月くんは、卯月よりもどこに何があるかわかってそうだね」
「勝手知ったる何とやら、だね。まあ、台所は昔っから俺の持ち場みたいなもんだから」

大学時代に同居していたときのことを言っているのだろう。
彼は適当な紙袋の中にタッパーを重ねて入れて持ってきた。
多分、このタッパーを洗って拭いたのも彼なのだろうな、と思う。
彼はそうやって、ごく当たり前のように弟の身の回りの世話を焼いている。

「はい、お待たせ。これで全部?」

中を確かめるように広げて渡された弥生の反応は、他所事を考えていたせいで、一拍遅れた。

「……あ、うん。ありがとう」
「どうかした?」

きょとんと首を傾げる彼は人並み外れた長身の持ち主だが、その仕種には何の違和感もない。
弥生にとっては、子どものころとまるで変わらないように見える。
本当はそんなはずがないことくらい、わかっているのだけれど。

「何でもないよ。それより皐月くん、今日はお休み?」

にっこりと穏やかに問いかければ、皐月は照れ臭そうに肩を竦めた。

「うん、振休を消化しなきゃいけなくってさ〜。せっかくだし早起きして掃除するつもりだったんだけど、すっかり寝坊しちゃった」
「やっぱり、寝起きだったんだ」
「えへへ。あ、やよちゃん時間ある? お目覚のお茶に付き合ってよ」

彼の小さなおねだりに、弥生は微笑んで頷いた。

「……そうだね。じゃあ、少しだけ」


******


「ねえ、やよちゃん。もしかして怒ってる?」

おそるおそる、といった様子で訊ねる皐月に、弥生は笑って問い返す。

「怒っていないよ。どうして?」
「いや……、何となく、空気が重いような気がして……。気のせいなら、それでいいんだけど」

そう呟きながらも、居心地悪そうに大きな体を小さくしてソファに膝を抱えて座っている皐月に、思わずくすりと笑いがこぼれた。

「怒ってはいないけど、もしかしたら、やきもち、妬いてるのかも」
「えっ、誰に……!?」

途端に身を乗り出した彼に、弥生はやさしく問い返す。

「誰だと思う?」
「ちょ、訊いてるのは俺の方なんですけど」
「うーん、僕にもよくわからないんだよね、実は」
「何それ……」

がっくりと項垂れる皐月の傍らで、弥生は皐月が淹れてくれたお茶のカップを両手で包み込むように持ち、ぽつりと呟きを落とす。

「何だろうね。前はこんなこと、なかったのにな。自分のことなのにわからないなんて」

傍らを見上げれば、彼は困惑したような、強張った表情を浮かべていた。

「――――それとも、気づいていなかっただけなのかな。ねえ、皐月くんはどう思う?」

すると彼は、なぜか今にも泣き出しそうな顔になった。
そして、何かを訴えるような眼差しで弥生を見つめながらも、それを堪えるように唇をぎゅっと引き結んでいた。
器用なようで、肝心なところが不器用だな、と思う。
だがそれを口にしたなら、やよちゃんにだけは言われたくない、と怒られてしまうのだろう。

「お茶、飲まないの?」
「それよりも今はものすごくちゅーしたいのですが」

泣きそうな顔のまま、彼は大真面目にそうのたまった。

「たまには、釣った魚にも餌をくれないと飢えすぎて噛みついちゃうよ」
「うーん、釣ったというよりも、釣れちゃった、ていう方が正しい気はするけど」
「気にするのそこ!?」

その反応に、弥生はくすくすと声を立てて笑う。

「――――でもまあ、それでも放り出せなかったのは、僕にも責任があるんだろうね」

持っていたカップをテーブルに置くと、温まった掌をそのまま、目の前の頬に重ね、そっと唇を寄せる。
真っ赤な顔で言葉もなく、はくはくと息をしている皐月に、思わず笑みが浮かんだ。

その様子がかわいかったので、目尻に追加でキスを落とし、耳元にそっと、彼にだけ聞こえる声でささやきかける。
すると彼は耐えかねたのか顔を両手で覆って俯き、ああもうそういうずるいとこが好きなんだけどさあ! と、やけくそのように叫んだのだった。

作品名:幸せ者の敗北宣言(353) 作家名:あらた