彼らについて
ぽっかりと空いた四角い不自然な闇を伊作がしばらくじっと見つめていると、ぴょこ、と見覚えのある包帯男が天井裏からその顔を出した。
「伊作君、今、暇?」
その様子を見て、伊作は雑渡の事をまるでオコジョとかいう生き物のようだと思った。実物を見た事はなかったが、なんでも、穴からぴょこぴょことその顔を出したり引っ込めたりとする、大変愛らしい動物だそうだ。その割に気性が荒く、小さい身体で兎をも狩るとも聞いた覚えがある。しかし、そうやって考えれば考えるほど雑渡とオコジョの関係性は薄れてきたので、伊作は勝手に残念な心持ちとなった。伊作の知り得る限りでの雑渡は、誰彼構わず手当たり次第に噛み付くような小物では決してなかった。さしずめ、能ある鷹は、というやつなのだろう。本当に鋭い爪を隠しているかどうかは、その包帯の下を知っている伊作にも見つける事は出来なかったので分からないが。
「忙しくない事もないですよ」
行儀悪く床に寝そべり、右手に煎餅を、左手に湯呑みを持つ伊作は確かに束の間の休息を満喫するのに忙しかったが、逆に言えばそれ以外する事がない程度には暇でもあった。
「そうか。なら、また今度にするよ」
しかし雑渡は伊作の言葉を額面通り受け取ったようで、「じゃあね」とその顔を引っ込めた。いつもなら伊作がどんなに忙しかろうと、眠かろうと腹が減っていようと、割と平気でその生活圏内にずかずかと踏み込んでくる雑渡だったので、今日はやけに大人しいな、と伊作は若干気味悪がりながら何とはなしに半ば職業病のような態でその鼻を、すん、と動かす。すると嗅ぎ慣れた鉄の臭いが鼻先をくすぐった。先ほどまではしなかった、という事は出所は一つしかない。
「雑渡さん!」
「なあに?」
もう一度ぴょこ、と天井裏から顔を出した雑渡だったが、いくらその様子が可愛らしかろうと、もう決して騙されないぞとばかりに目を吊り上げる伊作を見て分かりやすく肩を竦める。伊作が不躾にも人指し指だけで下に降りてくるよう指示すれば、彼の人は物音一つ立てずにそこへ降り立った。その脚絆を脱がせ、袴を捲れば左足のふくらはぎに布が巻いてある。うっすらと血の滲んだそれを遠慮なく剥ぎ取ると、新しい矢傷が顔を見せた。ご丁寧にもここに来るまでに一度水で洗ってあるのだろう。見たところ、毒の類ではなさそうな事に安堵を抱きつつ、しかし、ここまで周到に応急処置をしておきながらその後の治療を怠ろうとした事に対して、伊作は言いようのない腹正しさを覚えた。
「どうして先に言わなかったんですか!?」
「いや、お邪魔かなと思って」
「僕みたいな若輩者が言うのもなんですけど、変なところで遠慮するの、本当に止めた方が良いですよ」
それがあなたの命を奪うとも限らないと何度も言っているのだが、雑渡は雑渡で年長者の気概とやらがあるらしく中々引かない。かと言って、彼の方に伊作の元を訪れるのを止めるという選択肢もないらしく、ならば聞き入れてくれるまで言い続けようと、同じ台詞を何度も繰り返す事にしている。
「気付かないと思ったんだけどなあ」
「それって、暗に僕が鈍臭いって言ってます?」
「いや、違うよ。嗅ぎ慣れてそうだから、鼻が麻痺にしてるんじゃないかと思って。現にさっきまで、保健室で手当てしてたでしょ」
「…あんた、一体いつから学園に居たんですか」
先生方は何をやってらっしゃるのだろうと思わない事もないのだが、どうやら雑渡は既に小松田とも顔見知りのようで、「君のとこの若い事務員さん、あの子もなかなか面白いね」という話をしたのはつい先日の事だった。入門表にサインをしている上に、今のところ学園に危害をもたらす意思を持たない者を追撃するほど、先生方も暇じゃない事くらい伊作にも分かっていた。そして、必然的に自分が彼の相手をしなければならないという事も。
染みますよ、と一声掛けてから傷口に薬を塗り込んでいく。お灸を据えるつもりで少し強めの薬を使ったのだが、その痛みにも全く動じない雑渡を見て、自分もいつかはこのように堂々とした大人になれるのだろうかと伊作はこっそりと溜息を吐いた。
「…一瞬、騙されそうにはなりました」
「普通はそのまま騙されてくれるよ」
「そうですか」
黙々と治療を続ける伊作の目の前に、雑渡はその足を放り出して彼の好きにさせている。無防備なその姿に、どこまで自分は侮られているのだろうと、忍びの端くれとしては卑屈な気分にもなったが、医学を嗜む者としては嬉しくもあった。自分の知識を人を殺す為ではなく、生かす為に使って生きていきたいと、そう願う自分を大袈裟だが認めてもらえた気さえする。そうやって自分にこそばゆい矛盾を与え続けてくれるこの大人に騙されているのか、それとも単にからかわれているのか悩んだ時期も一応はあったのだが、何がどう転ぼうと不運のせいにしてしまえるだろうと、傍迷惑な豪胆さでお互いの関係について考える事すら、伊作はすでに放棄していた。
「気付けて良かったです」
雑渡が何か言いたげにしたのには気が付かない振りをして、伊作は続ける。
「救える命をみすみす見過ごすのは、僕の信条に反しますから」
真顔でそう告げれば、向かいから「勝手に殺さないでよ」と困った声がした。
「ていうか雑渡さん、遠慮したんじゃなくって構って欲しかっただけでしょう」
「まあ、追うよりは追われたい性質かな」
「忍者のくせに」
「君にだけは言われたくないよ」
一通りの治療を終え、血と薬品の臭いが混じったままの部屋で煎餅を齧りながら世間話に興じる二人はあまりにも忍びらしい忍びだったが、伊作はあえてその矛盾を今は見て見ぬ振りする事にした。
どうせ、次の春にはどうなっているとも知れない間柄なのだ。今くらいは穏便にいこうじゃないか。