羽化
分化の苦しみに耐える姿を見る男は、うっすらと笑っていた。
籠りを迎える者は外界と隔離されて分化を待つのが一般的だが、城を抜け出して逃亡中の二人においてはそうもいかない。
分化を始める体を心配したトッズは、どこかの籠り小屋に潜り込むことを主張したのだが、当の本人は頑なにそれを拒んだ。
「籠りの最後はとにかく動けないし、分化中は同じ状態の子供と一緒にいた方が早く進んで、結局お前のためなんだよ?」
「だめだよ、動けない時に徴を見られたらおしまいだ」
田舎の子供ならば、額に輝く選定印を見ても意味を知らないだろう。しかしそれを大人に知らされれば事情が変わる。確かに、見つかる危険を避けるにこしたことはない。
はぁ、とため息をこぼして、トッズは目の前の体を抱き寄せた。小さな子供の体はすっぽりと胸におさまる。
「俺はね、レハトが一番なの。たとえ見つかって、捕まっても、もう一回俺がさらってあげる。だからさ……」
「嘘つき。だめ」
ぐりぐり、と小さな頭がトッズの胸に擦りつけられる。トッズを見上げてにこっと笑う顔に、ずれた帽子からわずかに徴がのぞいていた。
「見つかって、捕まって、閉じ込められたり、その場で殺されるかもしれないよ。そんなのは嫌だ。……ずっと一緒にいたい」
「……強情だな。わかった、わーかったよ! 籠り小屋にはいかない。ただし、お前の様子が危なそうだったら、問答無用で叩き込む」
「ええー……」
「ええーじゃないの。そこは譲らないよ」
もうすでに、トッズは小屋の目星はつけてある。二人がいるのは南方へ行く道から少し外れた森の中だったが、近くにある村にも当然籠り小屋があり、いざとなればそこに潜り込ませてもらおうと決めていた。
「小屋に行かなくていいように、がんばってね」
「うーん、まあ善処はする……」
始まってみなければ負担の軽重はわかりようがなく、努力のしようもないのだが、あいまいに答えた。
そうして始まった分化の終わりは、比較的ゆるやかなものであったようだ。それでも十分に苦しそうで、寝返りすらままならない状態が訪れていた。
トッズ自身はとうの昔に終えていて、暗く粗末な小屋の中ですることもなくうずくまっていたような記憶がぼんやりと浮かぶくらいだ。ただむせかえるような人の臭いだけは覚えている。あれは若さのもたらすものなのか、分化の変化がもたらすものなのか、同じものを嗅いだ事がなかったが、今のレハトの体からはその臭いがしていた。
その臭いを吸い込むようにしながら、苦しげな呼吸を繰り返す彼の体をふいてやり、流し込むようにして食事をとらせ、あとはひたすらに彼の傍らに座っている。
「トッズ……?」
「ここにいるよ」
「うん……」
朦朧とした意識の中で呼びかけられて、頭を撫でてやれば安心したようにすっと眠りへ入って行った。それを見守りながら、トッズの口元はどうしても笑ってしまっていた。
本来なら、分化していく様子をつぶさに見ることなど、たとえ親兄弟や恋人でもできない。
だがトッズは今こうして目の前で、徐々に姿かたちを変えていくのを見ていることが出来る。胸にあふれるそれは確かに喜びだった。
「ごめんね、お前さんは辛いのに」
唇がねじくれてつりあがり、笑みの形を作っている自分の顔はさぞ醜悪なことだろう、と思いながら、トッズは身をかがめて熱のある頬に唇を寄せる。すべすべした頬からは埃の味がした。
* * *
毎日熱心に見つめているせいか、それほど変化がなかったのが一気に変わったのは、寝付いてから四日もした頃だった。わずかに目を離した隙に、髪が伸びていたのだ。拭いてやる体はおうとつが出はじめて、背丈も伸びて着ている服が合わなくなってきている。
蕾が開くような、蝶が蛹からかえるのを待つようなわくわくと弾む気持ちを抑えきれずに、トッズはただひたすらに見つめ、待った。
いつしか苦しみに寄せられていた眉が解かれ、赤くなった唇から穏やかな吐息が漏れるようになって、トッズは分化の終わりを知る。
貴重な時間だった。
本人ですら知らない分化の間を、トッズだけが知っているという秘密は、とろりとした火で男の胸に納まってこれからもくすぶり続けるだろう。
それにしても無事に終わったようでよかった、と自身も吐息をついて、トッズは改めてレハトの顔を覗き込む。
つややかな髪と、整った面を持つ美しい少女がそこにいた。
いつか夢で見た姿に似ているような気もするし、違うような気もする。
「おはよう、お疲れ様」
「トッズ……」
開いた瞳が一番先に己を見ることもまた喜びだ。トッズはそっと体を支えて起こしてやると、唇に水の入った器を宛がう。飲み干した後に再び器を満たし、爪の伸びた両手を添えて持つようにしてやった。
するとレハトは食い入るように器の中身を見つめた後「どうかな」と呟く。
「え?」
「僕、変わった? どう……?」
恐る恐るトッズを窺うのに合点がいって、トッズは笑いだすのを堪えようとして失敗した。
「おま、俺の好み気にしっ、ぶはっ」
「……!」
みるみるうちに目に涙を浮かべるのに慌てて弁解する。
「違う違う! お前が俺の好みじゃないわけないだろってこと!」
まだ疑いの残る眼で見つめられて、困ったなあと嘯きながら、にやついた顔で細い体を抱きしめた。
「どんな姿に分化したって俺はお前のこと愛してるから、心配しなさんな。それに、すんごい美人さんになったよ、レハトは」
「……ほんと?」
「本当だって!」
「なら、いい」
まだすねた様子ではあるが、それでも甘えるようにトッズにもたれかかって目を閉じる。じんとした喜びがトッズの胸を震わせ、深い息を吐かせた。自らの美醜より先に好みを気にするなんて可愛らしいではないか。
王城という繭でその才能を磨きあげられた寵愛者は、まさに王たるにふさわしい全てを身につけ、分化を経ていまや完全なる蝶になった。しかしその美しい姿を愛でるのは、暗殺者崩れの男一人だけだった。蝶はどこにも羽ばたこうとはしないだろう。
王にと望まれた者は、今やトッズのものである。