ビギナーズアゴニー
隣に立っていたダブルスパートナーの先輩が脈絡もなく突然そう呟いた。いきなりの言葉にそちらを向けば、彼は眩しいものでも見るように目を眇めてこちらの方を見ている。
今はコートの端で小休憩をとってる最中であって、けして景観が良い場所にいるわけではない。なにか見目麗しい人間でも通りかかったか、それとも美しい自然現象でも起こったかと、同じ方向に首を向けてみるものの、そこにはいつも通りの校舎たちが並んでいるだけで、別段変わったものはない。
「……なんもないやないですか」
一体何に対しての感想だという思いをこめて呟き、またそちらに向き直れば、謙也は可笑しそうに笑っていた。
「どこ向いとんねん、お前や、お前」
「はあ!?」
どんな口説き文句だそれは、言っとる相手わかっとんの、色々言いたいことはあったがどれも言葉にならず、素っ頓狂な叫び声だけが唇を通る。目の前の爆弾発言をした先輩を思わず凝視するが、彼はこちらの驚きをものともせずにまだ笑っている。
アホな先輩やとは思っとったけどついにとち狂ったか、と若干憐れみの気持ちがわいてこないでもない。そんな突っ込みと同時に駆け上ってきたどうしようもない感情には無理やり蓋をしようとして、それでもやはりはみ出してしまって、しかたなくその分は少しだけ唇を噛んで、やりすごす。
頭沸いたんちゃいますかとでも声をかけて濁してしまえばいいのか、下手な反応ができないだけに固まったまま頭だけをフル回転させる。無言でぐるぐると自分の世界に入りかけていれば、まだこちらを見ていた隣の男の手がこちらにのびてくる。かわす間もなく、髪を一房手にとられた。
「お前の髪、まっくろやん。そのせいか陽に当たるときらきらするねんな。今日みたいな天気ええ日やと、ほんまきれいなんやで」
自分じゃわからんやろ、勿体ないわ。そう言ってワックスのついた自分の髪を離さない男は、自分の言っていることがわかっているのだろうか。そんなまるで、愛しい者への言葉のようなひどい台詞を、ただのダブルスパートナーの後輩に、平気で投げかけていることに。
無神経だ、ひどい、そう思う。謙也のことだからきっと他意はなくて、本当にそう思ったから口に出しただけなのだろう。こちらの感情なんかおかまいなしに、揺さぶるような言葉を浴びせて。そんなつもりはないくせに、期待させるようなことを平気でして、悪気もなく笑っているのだから。
本当に、ひどい男だ。鈍感で天然タラシ、誰にでも優しいお人好し。なんでこんなひとに惚れてしまったのだろう。
「そないな言葉俺なんかに言ってどないするん。女にでも言ってやったらええんすわ」
もう謙也の方を見ていられなくて、目を逸らしながらそう毒づく。視線の先の木々は陽の光を浴びて美しい緑色を輝かせている。どうせ誉めるならあっちにしてくれればよかったのに。惚れた女を口説くように愛おしそうに自分の髪を褒めた謙也が、今は憎かった。
なんでこんな苦しい思い、せなあかんの。あんたに惚れたばっかりに。
苦々しい表情をしている自覚はあった。照りつける日差しのせいだと思ってくれればいい、そう思って景色を睨みつける。隣の彼の指先は先程から財前の髪を離さないままで、ワックスでべたついているはずのそれを触っては楽しそうに眺めているのが気配でわかる。はやく離してほしい。心臓がうるさくて、痛くてしかたがないから。
ああけれど、本当は多分、離してなど欲しくなくて。
「……でもなあ」
ようやく口を開いた謙也にのろのろと視線をやれば、彼はまた笑っていた。けれどそれは先程のような玩具を見つけた子供のようなものではなく、チームメイトと騒いでいるときのような年相応のものではなく、彼には珍しく、穏やかで、優しい、静かな微笑だった。
「光のこの髪やからきれいやと思ったんやで。せやから他のやつに言うても意味ないわ」
今度こそ本当に、言葉が出なかった。体も頭もすべての動きが止まってしまって、ただ立ち尽くす。こんな反応絶対に不審に思われる、そうは思うものの、自分の体は何ひとつ言うことをきいてくれない。
ひかるのやから、その言葉が財前にとって何よりの魔法の呪文であることを、きっと謙也は知らない。彼がたとえ財前の一部のパーツであっても、特別に扱うというその事実がどれだけ財前を揺るがすか、彼には想像もできないだろう。謙也はいつだっていとも簡単に、財前の世界を塗り替えて作り替えていく。
謙也は財前が固まっているその間も手を離さないままで、こちらを眩しそうに見て、笑っている。なんでそんな笑い方すんねん、そんな瞳で見んねん、勘違いしてしまいたくなるやん、このタラシめが。脳裏で叫んでみるものの、それは表情には表れない。自分のポーカーフェイスがこんなところでいきてくるとは。
「……ひかる、」
彼がおもむろに口を開いた時だった、背後から白石のレギュラーに集合を呼びかける声が響く。謙也は言いかけた言葉をとめてそちらを振り返り、おう!と大声で返事をした。そしてすぐにまたこちらを見た彼は、掴んでいた髪をようやく離す。
ほっとしたような名残惜しいような、そんな複雑な気持ちが自然とその手を目で追わせるが、その掌はすぐにまた自分の頭に戻ってきた。
今度は頭全体をわしゃわしゃとかき混ぜられる。こっちの髪型のことなどおかまいなしだ。自分より少し大きな手のひらが、ワックスで固めた髪を乱していく。
「俺が言うのもなんやけど、できたら染めんでや。光のその髪、好きやねん、俺」
破顔してそれだけ言った彼は、今度はすぐに財前の頭から手を離し、身を翻してレギュラー陣のところへ駆けていってしまった。
自分も早く皆のところに行かなければならない、わかっているのに足が動かない。ついでに頭も動かない。
なんて言葉だ、なんて笑顔だ、あんなことを言われてしまったら、がんじがらめになって、動けなくなってしまうに決まっている。思考も葛藤も苦しみもすべて奪われて、別のものに一杯にされてしまうこと以外、財前に許してくれないじゃないか。
「……ほんま、なんやのあのひと……」
呟きは風に乗ってすぐにかき消された。背後から自分を呼ぶ白石の声がする。行かなければならない。この制御が奪われたままの体から思考だけでも取り戻して、テニス部員のレギュラーとして動かなければならない。自分を叱咤して足を動かし、ようやくコートに向けて走り出す。
けれど耳元で髪が鳴る度に、先程の謙也の声が聞こえる気がして、振り切ろうと無理に頭を振った。髪型はもうひどいことになっている気がしたけれど、構っていられない。そんな余裕があるほど、財前は恋という感情に慣れてはいなかった。