あの夏がほおに張り付いている
ぼくはサンヨウシティのすこうしだけ奥にある、さみしい場所へ思いを馳せながら、どうしようもなくまどろっこしい記憶に唸っていた。なんだか不思議と甘ったるい新緑のにおいが鼻孔をくすぐり、ある人間を彷彿とさせたが、今やその人間は以前のような青青しいいきものではなくなってしまっている。「今や」というより、とうの昔に、と云ったほうがなかなかに正しいのかもしれなかったが。
(きみのにおいが、する・・・)
古びたスニーカーを纏ったぼくの足をそっと進めた。サンヨウシティは街を囲う樹木が水滴にきらきらと輝いている、世界の中心より微かに離れているようなところで、真ん中にジムリーダーの運営する小洒落た喫茶店がとん、と存在した。早朝6時とはいえその店は9時を過ぎたころに開くのだから、ぼくはそろそろ店先に置いてある植木鉢の水遣りをしにコーンが現れるのだろうな、と勝手に予想する。最近になってベルが芍薬という日本の花に興味を持ち、育て方から球根の入荷に至るまでをこの街のジムリーダーに頼んでいるというから、ぼくは呆れてものも云えなかった。なにしろ幼馴染みのベルは、育成についてはてんで上手ではないからである。
歩き慣れたみちを進みながら、ぼくは深呼吸ともとれるくらいの溜息をついた。約束の時間は、とっくに過ぎてしまっている。
「ようやっと見つけたのに。きみったら、すこしも変わっていないね」
夢の跡地。
さびれた廃工場であるそこで、ぼくとトウヤはあろうことか待ち合わせをしていた。懐かしい顔をしたトウヤを見て口から零れた一言に、ぼくから目を逸らして、トウヤは辛そうに笑む。ずうっとむかしに見たような、でもそこまでむかしのことではなかったかもしれない・・・。
「そういう期待はしないでよ」
「悪いね、けれど一年も丸丸いなかったんだから、きみは。とうにぼくの身長を抜かしてしまっているかなと思っていたんだよ」
崩れたコンクリートの、なるたけ平らな部分を探して、ぼくとトウヤは腰かけた。そうしてじろりとトウヤを眺めると、服装や大っぴらなところこそ変わっていないが、肝心の中身には何らかの変化というものが容易に見受けられて、ぼくは酷く落胆した。ぼくらが物心ついてから薫るようになった、トウヤの芳しい花のにおいが。あれは白い百合だったか? それが上塗りされて無理矢理消されてしまったような感覚がして、思わず「あっ。」と声を漏らす。トウヤは音を立てずに、くすんだ灰茶色の目玉をぼくに向けた。
「もうすこし」
ぼくの掠れ声を聞き流すように、トウヤがぽろりと呟く。そうして不意をつかれたぼくは、前のめりになってぼくのかおを覗き込むトウヤから、背をのけぞらせて逃れようとするも、腕をつかまれてしまってそのままになった。
「なんだって?」
「もうすこしで越すよ。背、もう2センチもないんだから」
トウヤの美しいかんばせがくすぐったそうに綻んだのを、ぼくの視界は優に捉えてみせたので、咄嗟に口をつぐむ。
(なんだ、そういうことなのか)
妙に納得したのには特記するほどのきっかけも意味もないのに、どうも無関心無感動を決め込むことはできなくて、ぼくはぼくの中途半端さを潔く呪うことになる。なんだいなんだい。妙に青臭かった筈の、やわらかくてまだ咲いていないような。そういう百合のにおいを探す嗅覚が掴んだのは、あたためたカフェ・オ・レさながらに香ばしく憎らしいものだった。
これをどこかで嗅いだ。どこかで。
「・・・帰ってきたのかい? トウヤ」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、とうとうあの男をみつけたんだね。だってきみからにおうんだ、あの、Nの、」
皆まで云う必要もなく。
服にしわができるほど強く握られたぼくのうでは、もう離してくれるなと切におもっているのだ。このうつくしいトウヤがあの男と再びつながりを持ってしまったことに少なからずの危機感を覚える。けれども、トウヤはこうして帰ってきた。還ってきたのだ。ぼくのそばに。
「そうかい。そうかい…」
笑うことしかできなかった。
作品名:あの夏がほおに張り付いている 作家名:マリエ