楽園
何もかもが終わった後に改めてその姿を思い返してみれば、口元には僅かな微笑み、中空を抱擁する細長く華奢な両腕。異国の神がかのような佇まいだったように記憶している。
巫女は静かに寝息を立て、胸元は穏やかな波が寄せては引くように上下していた。少しばかり前、巫女は僕たちに不眠を訴えた。巨人の復活騒動から無事に救助されて程なく、多くの呪いを受けたものを幾人も治癒させてきたのである、疲労が溜まるのもおかしくない話だった。曲がりなりにも医術師と呼ばれる僕達は、巫女へいくつかの睡眠導入剤を進め、また彼女の希望によりこうして数日の間寝食を共にする事となった。今も寝息を立てながら薄く閉じられた瞳の下にはうっすらとした影がかかっている。
巫女の解いてきた世界樹の呪いの詳細については断片的にしか知るところではないが、長期の苦痛をもたらし、やがていずれは完全に宿主を植物へと変じさせてしまうという呪いであり、世界樹に由来するものの意思によってしか解除する事はできない。
僕は彼女を起こしてしまわないようにそっと鞄の底から書類の束を引っ張り出すと、錆の浮きかけたランタンの炎に透けるそれを一枚一枚読み返していった。かの封じられていた禁書庫に眠っていた、いにしえの計画の書きはしりの写しである。あの巨人は伝承に伝わる通り、かつて何らかの災害によって穢れた地を浄化するものであったという。しかしそれが現在の帝國の抱える問題と地続きになっていたかと言うと、微妙な違和感を覚えるのだ。帝國では北部の国土一帯の荒野化への抑止力を世界樹に求めたが、そのかつての走り書きには、ある日突然、一帯の地の恵みが人類にとって毒素に変容したと太古のものは書き記していた。汚染された大地は育てた植物をも汚染したという。そして、人類そのものを汚染に順応できる体に変容させるか、あるいはこの大地・環境そのものを人類にとって無害にしていくか…計画は後者で進められ、そして何らかの形で暴走し、封印された。ではその後人類は汚染を浄化し切れなかった地でどう生き延びたのか。
人類そのものを汚染に順応できる体に変容させる…実行されなかったもうひとつの計画方針。初めの計画は大地を浄化させる為に進められ、その過程で毒素を含む食物でも生きる事が出来るウロビトやイクサビトが作り出された。では現在ではどうだろうか。ウロビトもイクサビトも自分たち人間と同じテーブルにつき、談笑しながらパンをちぎり、チーズのかけらをつまみ、温かなスープを口に運ぶ。
おそらく世界樹の暴走以降計画は見直され、人類そのものが作り変えられたのだろう。そして今僕達が生きる世界は汚染されたままの世界だ。人類は環境に順応し、そして過去は忘れ去られた。やがて世界樹は眠りながらもその身に宿した能力である大地の浄化を徐々に行い、帝國の荒野化はその浄化された土地に汚染に順応した草木が育たなくなった事が原因だったのではないだろうか。
帝國の若き皇帝のやっていた事が報われない結果に終わったろうという事を考えると、どうしようもなくやるせない思いになるが、この考えについては後々彼らに伝えてみるべきだろう。そう考えをまとめたのち紙束を鞄にしまいなおそうとすると、不意に背後からものの動く気配を感じた。一瞬驚き振り返るが、それはただ巫女がまどろみのなか寝返りを打っただけらしかった。少女らしい丸くやわらかな背中が寝具の隙間から垣間見える。世界樹の心。世界樹の声を聞くもの。彼女は人の為に生み出されたにも関わらず結局人に害ある存在でしかなかったと認識した世界樹が、不要と認識されたその身を人から守る為に、生存本能が生み出したある種のデバイス、外交を担う機関だったのではないだろうかとふと考えた。
果たしてあれは本当に呪いと呼ぶに値するものだったのだろうか。皇子が満身創痍のまま地の割れ目へ姿を消し、かの巨人を打ち倒すまでに一月は経過していた。とても生身の人間のままでは生きて戻らなかっただろう。それが、発見された時には彼の身を引き裂いて生え広がった蔦が、まるで赤子をあやすゆりかごのように彼の身を押しつぶさんとする石の間に生え広がっていたという。
人の身を包み込むそれは宿木の様でもあり、胎盤の様でもあり、まるでその先に待つのが死ではなく、楽園であるとでも言うような。
かつてこんな寓話を聞いた事がある。ある科学者が十分な水分と日光だけで活動できるようになる薬を開発し、その国中から飢えの苦しみを無くした。かわりに飢えに苦しまなくなった人間は労働よりもより日の光を浴び過ごすようになり、何千何万年もの時の中でやがてその人々は植物と呼ばれるようになったという。
僕は緩やかなカーブをえがいた巫女の小さな背中がかの巨神の姿と重なりつつあった。人類を慈しみのこもる瞳で見つめる異形の母神…
作品名:楽園 作家名:katabami38