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虚事

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血の匂いがする、とエリザベータは思う。

微かに瞼を開ければ、男の白すぎる肌が見えた。エリザベータはそれに顔を近づけて、軽く匂いを嗅ぐ。男の匂いに混じって、血の匂いが微かにした。
誰かを殺した、代償。
息がとまるほどの苦しさがエリザベータを襲う。だがぎゅっと唇を噛んでこみ上げるそれを呑みこんだ。
誰かを殺したのは自分も同じ。長い時間を生きてきて、誰も殺さないなんてそんなこと出来る筈ないのだ。もしも誰も殺さず綺麗な手のままでいたら、自分はとっくに消えていただろう。それは男も同じだ。
何せ自分たちは人ではない。人と同じ姿をしていながら本質は全く違うのだ。
綺麗な手のままでいることなんて、生まれながらにして許されない。誰かを殺して何かを奪って虚を守りそれを正義と偽りながら―それでも自分の為ではなく誰かの、自分を信じてくれるたった一人の為だけでも生き永らえなきゃいけない、そんな存在だ。
それを証明するように、昨日までの仲間が翌日には敵になる―それを飽きる程繰り返し、そのたびに掌に傷を作って血を流してきた。勿論それが正義だと信じながら、信じる為に。
エリザベータはそっと男の胸板を見つめた。数えきれないほどの傷が視界を打つ。古い傷も真新しい傷も、白すぎる肌に残酷なほど刻まれてもう消えないものの方がきっと多いだろう。
この男だって何度剣を交えてきたかは分からない。むしろ敵である方が多かったのだ。傷の多くはエリザベータがつけたものだ。彼女はそれを薄くなぞると、きゅっと瞼を閉じる。
引き裂かれそうになる心をずっと無視し続け己を殺し、その肌に傷を何度もつけた。何度も何度も剣を交え、男を傷つけ傷付けられ、肉体を殺いでは殺がれ、そのたびに感情がだんだん死んでいく。
それでも生き続けてきたのは自分も彼も人ではなかったからだろう。

人間でなかったから耐えられた。

化け物みたいなものだ。
エリザはふっと嗤う。
化け物、という言葉がやけに愉快だったのだ。そう、化け物だ。自分もこの男も人ではない化け物―だから傷ついてもその傷を隠して生き続けなければならない。
朝がくれば化け物に戻って剣を振るうだろう。大勢の敵を殺して味方を殺されて身体に傷を刻まれても倒れず、平気な表情をして刃を研いではそれを相手に穿ち続ける。
愛しさを手放して。
こうしていられるのは今だけ―夜の間だけだ。
朝がくれば。

エリザベータは背中に手を伸ばした。するとお返しとばかりに背中に腕を回されぎゅっと抱きしめられる。それにほっと安堵し、エリザは男の肌に顔を埋めた。
ギル、と呼べば、何だ、と低くそっけない声が聞こえる。エリザベータは続ける。
「もういい加減離れてよ……夜が明けるでしょう?」
「っ…お前がくっついてきたんだろうがっ」
「寝惚けてたのよ」エリザベータは肌から顔を離してギルベルトを見上げた。「それくらい判りなさいよね」
「お前なんて勝手な……」
絶句するギルベルトにエリザベータはぷっと吹き出す。そうそう、そうしていればただの幼馴染のギルベルトがそこにいる。血でまみれた腕も容赦なく生を奪う、自分と同じ化け物のギルベルトはそこにはいない。
ただのギルベルトがそこにいる―たったそれだけの事がエリザにどれほど安堵をもたらせたか。
悔しいからとても言えないけれども。
「うるさいわね……さっさと離れてよ」
「そういうならお前から離れれば良いだろうがっ」
「あなたが離れない限り私は離れる気になれないもん」
「……………」
ギルベルトが息をのむ音が聞こえた。エリザはにっこり微笑う。
「夜明けまで離れないでよ」
ここにいてよ、と彼女は再び顔を埋める。
血塗られた腕でも構わない。
同じくらい穢れた自分で良ければ、いつでもあげよう。

だから今だけは。
作品名:虚事 作家名:花雪