今夜は満月だったから
夜の海は遠くが霞むように暗く終わりが見えない。街明かりもここまでは届かず、周囲には砂浜と海、それを小さく囲んだ堤防だけだ。世界のはじっこはきっとこんな感じなんだろう。しかし今宵は満月で、少し雲がかっているものの白い砂浜をぼんやりと照らし出している。視線を前に戻せば先を歩くハルヒコの後ろ姿もちゃんとみえるはずだ。
ザザァン……ザァン……
私とハルヒコはここに来てからほとんど言葉を交していなかった。波の音が二人の沈黙を満たすおかげであまり気まずいとも思わなかったが、ただハルヒコの後ろ姿がどこか近寄りがたい気がした。ハルヒコはいつも私の一歩先を歩く。最後に並んで歩いたのはいつだったかと、何とはなしに考えた。
何を話せばいいんだろう。
夜の8時半ごろ、突然携帯電話が鳴った。お風呂から上がって髪も乾かし終わり、ベッドの上でうつらうつらしているときだった。ハルヒコがこんな時間に電話をかけてくるのは初めてで、なにごとかとどぎまぎしながら恐るおそる通話ボタンを押してみる。
『キョン子か?』
電話越しの彼の声はいつものそれより随分落ち着いていた。不機嫌なんだろうかと、一瞬不安になる。知っての通り彼は気分屋で、心変わりひとつひとつに相手をしていてはこちらがもたない。だからいつもは向こうの機嫌などさほど気にしないのだ、こんな突然の電話をよこさない限りは。
私はハルヒコが今どんな様子なのか、注意深く耳を澄ます。
『今暇だろ?』
「そりゃ暇だけど……」
『じゃあ今からちょっと付き合え。』
「場所によるな、どこに行くんだ?」
『海。』
「……はぁ?」
なんと彼は海に行きたいという。
『終電までに帰ればいいだろ。』
「待てよ、明日じゃ駄目なのか?どうせ今は夏休みなんだし、今日じゃなくても……」
『行きたくねぇなら別にいい。』
そのきっぱりした口調はいつものハルヒコそのもので、さして怒っているわけでも不機嫌なわけでもないようだった。むしろいつもよりずっと理性的な落ち着きを帯びている。けれどそれは全然ハルヒコらしくない。いつもなら「来なかったら死刑!」くらいはいいそうなものなのに。
私は内心少し慌てた。この様子だと私が付き合わなくても一人で海に向かいそうで、理由はわからないけどそれはまずいような気がした。一人で夜の海に行く、それはどんな心境なのか。何だか胸がざわざわする。
「わかったよ、20分で支度する。△▼駅に待ち合わせでいいか?」
瞬巡した挙げ句、私はそう答えていた。
オーケー。
それだけいって電話は切れた。
そもそもハルヒコという男は何でも一人で行動できる。自分がやりたいと思ったことには誰よりも素直にときに破天荒に、遣り遂げてきた。その強さは中学のときから変わらないという。
なら一人で海に行くぐらい、彼にとっては何でもないはずなのだ。
だけど私が呼び出された。
その意味とは。
準備をして駅に着くまでできる限り客観的に、または主観的にその理由を考えてみた。もちろん答えは全く見つからなかったが、とはいえ彼が不可解な行動を起こすのはいつものことだし、その質が多少異なったとしてもあまり慌てることもなかった。ただ少し、胸に引っかかる。それだけだ。
駅に着くとハルヒコは先に着いており、先に二人分の切符を買っていた。遅れて到着した私を一瞥し、やたらに素っ気なく行くぞ、とだけ言って歩きだした。目の前の光景にどこか現実味を感じないまま、私もその後についていく。夜の風は生温く、風呂上がりの少しだけ冷えた肌をやんわりと撫でた。ハルヒコのうなじ辺りの髪がそよそよと揺れている。
電車の中はすかすかで、一番後ろの車両は空っぽだった。
座席の真ん中あたりに腰を下ろした。ハルヒコはズボンのポケットに手を突っ込んだまま微動だにしない。
聞きたいことがいっぱいあった。なぜ海なのか、なぜ今なのか、目的は何なのか、夕飯は食べたのか、なぜ私が呼び出されたのか。
でも不思議と喉は全く震えず、ときどき声が出かかって息がつっかかる程度だ。一体どうやって切り出せばいいんだろう。
一瞬視線を感じてハルヒコの方を見た。バッチリと目が合い、ドキリとする。
「な、何?」
「お前、髪伸びたなぁ。」
そうかな、まぁ今は結んでないから新鮮なだけじゃないか。できるだけ自然に、平静を装った。でも出だしは少し震えていたかもしれない。
ふぅん、と気のない返事をして、ハルヒコはまた目線を前に戻した。ガタンガタンと揺られながら、私たちは海へと向かう。
夜の海辺は当然のように人気ない。昼間なら水着を着た若者や砂場遊びをする子どもたちもいたことだろう。だけど今は夜である。
「小さいな。」
ハルヒコがぼそりと呟いた。たしかに広くはなく、端からはじまで300メートルもないようだった。
「不満か?」
恐るおそる聞いてみる。
軽く頭を横に振り、いや、海なら何でもいいんだ。そう言って海岸へ続く階段を降り始める。
駅を降りる頃にはすべての思考を投げ出し「まぁ何でもいいから海の散歩でも楽しもう」と考えていた私も彼の後ろに続いた。階段を降りればすぐ浜辺だ。ここに来るまでに何匹か猫を見つけたが、浜辺には一匹も見当たらない。浜昼顔がふわふわと夜風に揺れているだけだ。
いつもは大股にずんずん進んでいってしまうが、今日は少しゆったりした歩調で砂浜に足跡をつけていた。私はなんとなくその跡を避けながら、彼の後ろを歩いていく。夏の満月がぼんやり冷たく光っていた。
ハルヒコは喋らない。
私は一体何を話せばいいんだろう。
振り回されるのはいつものことだから特に気にしてはいなかった。ただこの状況で身構えるのは当然だろう。あの疑問がまた頭に浮かび上がる。なぜ私が呼び出されたのか。話してくれなければわからない。
ここに来るまでもう何度も、彼の名前が喉のところまでこみ上げてきた。
だけど呼べなかった。彼が話しだすのを、待っていたのだ。
それともやはり本当は誰でもよくて、たまたま私が呼ばれたのだろうか。ここに居たのが朝比奈さんや長門、古泉でもよかったんだろうか。そんなの嫌だ、と胸がざわつく。
でもどうして?
「キョン子。」
小さいのにやけに通る声が私の名前を呼んだ。ハルヒコが歩くのをやめ、私も立ち止まる。
「な、に。」
戸惑いながら、私は応えた。
「家の人は心配してなかったか。高校生が夜に出歩いて。」
「誘ったお前が言うか。……ま、小言は言われたけど大して止められもしなかったよ。」
「そうか、それなら安心した。」
帰りは送るから。ハルヒコはそう言って元の方向に向き直り、また歩き出す。私はしばらく唖然となった。今までだんまりで、やっと話し始めたと思ったらそれだけなのか?なぁハルヒコ。お前、何がしたいんだよ?
もう待ちきれなかった。言ってくれなきゃわからない。デートならそう言って欲しいんだ。違うなら……やっぱりそう言って欲しい。私たちはまだ、言葉なしで分かり合えるほど何も分かち合っちゃいないだろ?
どんな答えでも傷つかないと覚悟を決めて、私はそっと、ハルヒコの影を追いかけた。
作品名:今夜は満月だったから 作家名:うろ