世界の終わるよる。2
失ってばかりの人生だった──あの日までは。
一面の闇の中で、弥勒は目を覚ます。
その一瞬、目を覚ましたと思ったのだが、それを確かに判別する術が、ここにはない。ふと、頬がつめたいような気がしたのだけれども、それもすぐに錯覚かもしれないという思いにすり替わる。ここでは何も見えず、何も聞こえず、何も感じないから。やがては自分さえもわからなくなるのだろうと、ただ思った。
ここはどこでもなくて、けれどなつかしい場所。うすら寒くてとてもあたたかい場所。やさしい終わりと、残酷な始まりのはざま。
見覚えはなくても、この場所を知っている。幼い日から、この闇を知っていた。
これは死が形創る闇だ。たいせつなものを、失った、闇だ。
何かを掴もうと伸ばしたはずの指先は何も掴むことなく、覚えのある虚無感とともに闇がその間をすり抜けていく。さらさらととめどなく流れていく。
何一つ掴めなかった。
たいせつなものは全てこの手を滑り落ちていった。
水面に浮かんだ月のように、触れることしかできなかった。あるいは、触れることさえも。
どこまでも続く闇の中で、緩やかに思考は遡ってゆく。
両親。顔も、知らない。物心ついたときにはいなかった。いたことも知らなかった。
兄弟。いたらしい。けれどやはり、顔も知らない。知っていたのは、もういないということだけ。
叔母。初めて出会った、血の繋がった家族。初めて明確に失った、血の繋がった家族。
養父。血の繋がらない家族。あたたかい言葉をくれた人。掌のぬくもりは、もう戻らない。
幼い手がたいせつにしようと触れたものは、ひとつも残らず運命に飲み込まれた。
ちいさなその手には掴みきれなかった。
だから思ったのだ。
何もたいせつではないのだと。
たいせつなものなど、何一つないのだ、と。
大人たちの言うままに流れ、手にすることも失うこともなく呼吸だけを繰り返した。いつしか生きようという気持ちも忘れた。歩いていればいずれは辿り着く、終わりを待った。
本当はただ、運命に抗いたかったのかもしれない。
ひとつも手にしないことで、これ以上ひとつも奪わせないように。これ以上何も奪われないようにと。
息を潜め、運命という名の獣の目から隠れつづけた。
ひとりで来たのだから、最後までひとりで歩き続け、いずれひとりで去るのだと、そういうものなのだと思った。
人と人の間を流れては出会い、流れては別れを繰り返しながらも、生きていない心には何も響かず、何も届かない。それでよかった。
そう、よかった。
そしてちいさな掌は、抗いきれない光を知る。
師匠と出会い、濁流のようにめまぐるしい人生は、僅かばかり緩やかになった。
名前を失くしたこどもは名を貰い、はじめて、長い時をともに過ごすことを知った。
大切なものは何もなかったから、何もないと思っていたから、ただこの人についていけば正しいのだと、信じた。
言われるまま技を磨き、ひたすらに与えられる課題をこなし、求められる姿になることが正しいのだと。信じていた。彼と、出会うまで。
彼は弥勒にたった一言楽しいかと訊ねた。
おまえはそれでたのしいのか、と──。
薄闇の中を歩き続けていた。
いつか終わりに辿りつくのだろう。それだけのことだった。
生きることをやめた時から何も感じなくなっていった。喜びも、幸せも、怒りも哀しみも。少しずつ剥がれ落ちるように消えていった。あとに残ったのは、人形のように空しい作り物の器だけ。
その闇を苛烈なまでのひかりが切り裂いた。
太陽が生まれた気がした。一瞬。失くしたはずの心が、揺れた。
呼吸を忘れ、言葉も忘れ、立ち尽くした。
かつて過ぎ去った場所に置いてきたはずの命。けれど本当のところはたぶん、忘れてなどいなかったのだ。何も諦めては、いなかったのだ。
眩しいほどに輝くひかりを、離したくないと、思った。
生きていたかった。
はじめて生きたいと思った。
このひかりとともに生きてみたいと、願った。
出会い、また別れ、少しずつ満たされ始めた空虚な殻には、いつしかあたたかさとかけがえのない絆が宿った。
優しくて生真面目で、けれど一筋縄ではいかない彼女。
努力家でひたむきで、いつだって励ましをくれる彼女。
揺るぎなくまっすぐ、ひかりで心を射抜いてしまう彼。
ともに過ごす日々は重ねるごとに大きく、つよく、大切なものになった。諦めることなどできないほど、特別になっていった。
この日々を守るのだと心に誓った。
幸せだったから。
いつか失う日が来たとしても、たとえまたひとりになる時がくるのだとしても、この記憶があるかぎり生きようと。
誓った。
どうしても失くしたくなかった。そのぬくもりを、その笑顔を、その声を、その優しさを、このいとおしさを。絶対に離したくはなかった。
あの時、失くすくらいなら憎まれた方がいいのだと思った。
すべてを壊した自分を、彼らは憎む権利がある。
憎んで──憎んで、憎んで、憎んで、そして。その果てに終わりがあるのなら、それもいいと。
そうすれば、もしかしたら最後まで繋がっていられるのではないかと。
淡い望みを抱いた。
結局のところ、ささやかな抵抗は失敗に終わってしまったけれど、きっとそれでよかったのだろう。今はそう思う。
わかっていて奪うことは、弥勒にはできなかったのだ。
狙いを定めて、武器を構えて、いつもと同じように放つだけ。それでもできなかった。ただ、生きていてほしいと願った。自分が奪ってしまった彼の分も。そしてできることならば、去ってゆく自分の分も。
自分勝手な願いだとわかっているのだけれど。
言われるがままに生きていた自分が、最後まで自分の意志で、我侭を通して死んでゆくことがなんだかおかしくて、言いようのない心持ちになった。
最後まで、彼はまっすぐに向かってくる。
揺るぎないつよさで。
心残りがあるとすれば、それは彼とともに行けないことだけ。
彼の望みを叶えられないことだけ。
やがて世界は、闇の中へと落ちてゆく。
ひたひたと闇の中に意識をただよわせていると、夢を見ているような心地がした。
この闇に果てはあるのだろうか。あるいはないのだろうか。そんなようなことを、とめどなく考えている。
どこかに終わりはあるのだろうか。始まりは。この闇を超えた先には何があるのだろうか。何もないのだろうか。闇の底はあるのだろうか。それとも、闇の頂は。何があるのかもわからない。何もないのかもしれない。
途切れそうな意識が綿菓子のように引き寄せられて、しだいに弥勒をつくりあげていく。
ひかりはどこにもないのだろうか。
ふいに込み上げるものが弥勒の意識を焦がす。
この闇の果てにひかりは。
ある。
つよく、誰かの声がした。
まっすぐに、ただまっすぐに。気がつけばその名前を呼んでいた。
力のかぎりを振り絞って。
そして幾万の闇と幾億のこだまのむこうに。
太陽を、見つける。
□■ 世界の終わるよる(果ての 果ての echoes.)■□
作品名:世界の終わるよる。2 作家名:ふじえだ。