私に渡しなさい!
綺麗な回し蹴りが黒い帽子を吹っ飛ばした。吹き飛ばした人は、冷たい瞳で男性を見ている。が、男性の方もその人を冷たい目で見ているのでお互い様だ。
男性の名前はノボリ、そしてその相手はトウコと言う。二人はこうして見ていると犬猿の仲のように感じるが、実際には恋人同士なのだ。信じられないかもしれないが。
サブウェイマスターのノボリ、とトウコ。二人が何故付き合い始めたのか、とかはどうでもいい些細な事なので言わないでおこう。重要なのは二人が何故キャットファイトのように闘っているか、だ(キャットファイトは女性同士の闘いなのでこの二人には正しくないかもしれないが)。
原因なんてものは、簡単に出てくる。
ノボリの浮気、だ。この時点で別れてもおかしくない二人だが、実際にはこの浮気は何十回も行われていた。しかも最悪なのは、ノボリがこの行為を浮気としてカウントしていない、という部分だろうか。ノボリのモットーは『来る者は拒まず去る者は追わず』なので、女性が誘ってきたらそれに素直に応じてしまう部分がある。だが、それはノボリにとっては浮気でなくても、トウコにとって、女性にとっては浮気だ。
「何を怒っているのですか」
「これで怒らなかったら〝無関心〟なだけだ!」
彼女はそう言い放つと、偶然近くを通ったクダリの腕を掴んだ。
「トウコさん? あれ、兄さん、仕事サボって何をしているの?」
「私、今日からクダリさんと付き合いますから!」
「え!? え?」
ここで一応説明しておくが、クダリは仕事人間で、女性と付き合ったことが一度もない。学生時代も勉強をしており、休日には電車を見に行く鉄オタ気質だった為、付き合うという行為をしたことが無かった。
「は? 本気ですか」
「ええ、本気です。じゃあ行きましょうクダリさん!」
「ちょっとトウコさん!?」
今から仕事だし、ノボリは凄い目で『クダリを』睨んでいるし、どうすればいいのかと悩む暇すら与えられず、ずるずると引きずられたのだった。
「いやだぁああああああああ!」
残念なことにその悲鳴はトウコの心には届いてくれなかったようである。アーメン。
「さ よ う な ら」
一文字一文字区切ってノボリに告げるが、トウコがそのように言いたくなったのは当然の話だ。
ノボリに呼ばれたから仕事場に来たのに、そこで隠れて女性とキスをしているシーンを見てしまえば、誰だって怒りたくなるものだ。
見つけてしまった自分の不運さを嘆かず、トウコは堂々と別れを告げる。
その正直さがトウコの長所であり短所だった。
「ごめんなさいクダリさん、巻き込んじゃって」
「……いいよ、もう。で、また兄さんが浮気したの?」
「ええ。あの人の〝浮気じゃない〟発言は信じないことにしました」
元々トウコとノボリの仲は宜しくなかったのに付き合い始めたのだ。その理由とかは詳しくは知らないが、罅が深まり、壊れてしまったようだ。
「クダリさんの前で言うのはどうかと思いますけど、あの人は女たらしのクズです」
「あはは……」
クダリは否定できなかった。
「兄さんは素直じゃない」
「知っているよ」
ノボリは笑顔を張り付けているけれど、実際にはクズな男で、女を性欲処理ができる玩具程度にしか考えていないし、綺麗好きなので手作りお菓子やセーターなどを嫌う人だ。そんなもの貰えば、本人のいない場所でごみ箱に捨てる、という最低な人間だ。目の前で捨てないのは、そのせいでバトルサブウェイに人が来なくなる、という事態を招かない為、だ。本心では目の前で捨ててしまいたいだろう。
「でもね、トウコさん。知ってる?」
クダリは楽しげに笑った。
「ノボリ兄さん、君に貰ったネクタイピンだけは大事にしてるよ」
ネクタイピンはそんなに必要なものではなく、毎日身に着けるものだ。
「〝一緒にいたいです〟なんて意味の品、いつもならすぐに捨てているのに、ね?」
「――――クダリさんも意地悪です」
トウコの顔は赤く染まっている。そんなトウコの背中を優しく叩くと、クダリは言う。
「心配しなくてもノボリは君のことが大好きだよ」
「じゃあなんで女性とキスするんですか……!」
「うーん、それは難しい問題だけどさ。トウコさん。少なくとも、あの人たちにするキスと君に対するキスは別だと思うよ」
「それだと納得できないから困っているのに」
トウコは頬を膨らませる。その姿は子供っぽいけれど、トウコはそこまで子供ではない。
「じゃあさ、こういうのしてみたらどうかな?」
クダリはトウコの耳元である『提案』をする。
「……クダリさんDTなのによく思いつきますね!」
「手伝ったことを後悔したよ」
「あはは! ちょっとした冗談ですよ!」
トウコは手を振っていく。
その背中を見ながら、クダリはライブキャスターで電話をする。
「あ、ごめん、ちょっとノボリ兄さんの足止めしてくれる?」
もうこれ以上ノボリに射殺されそうな瞳を向けられるのは嫌だから。
「あとは君の勇気だからね、トウコさん」
くすくす、とクダリは笑う。
トウコがほかの女性と少し違う部分は、乱暴な所と、ノボリに感情を見せないところだ。浮気されれば怒りたくもなるがそれを心の底に沈め、いつものように振る舞う。だから、トウコがノボリを蹴り怒ったのは今回が初めての事だった。
「ノボリ」
トウコは不機嫌そうにノボリを呼んだ。意外と思うかもしれないが、トウコはノボリを呼び捨てしている。昔は「さん」付けしていたのだが、今は関係ない話だ。
「トウコ」
そしてノボリもトウコを呼び捨てしている。
「――私はあんたが大嫌い」
「そうですか」
可愛げがない、と言えばそこまでだ。
「すぐに浮気するし、それでありながら自分は浮気してないって言うし」
「事実です」
「違うの! ……あのね、あんたのコレは私のものなんだから!」
ぐいっとネクタイを引っ張りその唇に、指で触れる。
「他の人にあげれるようなものじゃないんだから、もし別の人に渡したら浮気なの! それも分からないぐらい馬鹿なの?」
「…………」
ノボリは目を点にしていた。
「分かったら返事!」
「……はい」
そして、ノボリは嬉しそうに微笑んだ。
「ならその証を下さい」
「言われなくてもあげるわよ」
そしてそのまま唇を重ねた。
「あんたの身体は全部私のものなんだからね」
「ならトウコの身体も」
「ええ、あげるわよ」
クダリが言った『トウコさんから攻めれば?』というアドバイスはどうやら役に立ったようだ。