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握った手をゆっくりと離した冬

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『もう、長くはないのではないか』
『あれではもうきっと……この冬は越えられないだろうな』
小田原城内で囁かれる声から逃げるように高くそびえる栄光門の上に立つも、訓練され、極限まで研ぎ澄まされた風魔の感覚は嫌でもその声を拾ってしまう。
顔を歪めれば乾燥した唇がぷつりと切れて血が滲んだ。


風魔小太郎の雇い主である北条氏政が倒れたのは今から丁度四日前のことであった。
氏政の日課であった早朝散歩の途中、何の前触れもなくぐらりと倒れかかる氏政を視界に入れた風魔は数十メートルの距離を一気に駆け抜け、間一髪、枯れ木のような氏政の身体が地に付く前に抱きとめる。
一瞬生死の判断を迷う程に蒼い顔をしている主を抱え、広い小田原城内の一角にある主治医の部屋を目指す。
戦忍びの傭兵である己は自らの足だけで長距離を駆けることも多い故にどんな距離を走ろうが鼓動や呼吸が乱れることは殆どない。小田原城が広いとは言えどたかが城内。
通常走っている距離に比べれば伝説の忍にとっては造作もない程度だったが、この時風魔の心臓はかつてない程にどくどくと早鐘を打ち、とてつもなく長く感じる距離とあまりにも軽い主に冷たい汗がつうと背中を伝った。
医者は戸を蹴破って突然現れた忍に混乱しかけるも、風魔の腕の中ぐったりとしている氏政を認めると半ば叫ぶように近くの布団に氏政を寝かせるように指示した。
風魔は毒や怪我の治療なら大方やってのけるが、老人の病を治す術など忍として不要な事は教わっていない。
血相を変えて薬やら診療器具やらをかき集める医者を傍目に、全く何も出来ない自分の無力さを、ただひたすらに痛感する。
騒ぎを聞きつけた重臣らが部屋に集い、口々に氏政の名を呼ぶ。
声を無くし、氏政の名を呼ぶことも出来ない自分。強く握った掌にじわりと血が滲んだ。


そこまでが、四日前。
昼の休みが終わる鐘の音に風魔は伏せていた顔を上げた。皆各々の執務に戻り、氏政の見舞客も途切れる頃である。
風魔は枯葉を巻き上げて氏政の臥せっている医務室へと向かった。

「おぉ、風魔」
「……!!!」
「見舞いに来てくれたのか。聞けば倒れたのを助けてくれたのもお主らしいのぅ?ほんに風魔は良く出来た忍じゃあ」
昨日もまだ意識を取り戻さなかった氏政が厚い布団から半身を起こしてからからと笑っている。
その姿を見て風魔の身体に震えるような動揺が巡る。
いつの間に意識を取り戻したのか。
まだ少し顔色が悪いようだが身体を起こしていても大丈夫なのか。
己れのことはどうだっていいから早く身体を休めてくれ。
言いたいことは沢山あるのに喉から出るのは風の音のみ。
そんなもどかしそうな風魔を見て、氏政は優しげな笑みを向けながら、がさがさの骨と皮だけの手でそれより一回り大きい風魔の無骨な手を握った。

「前にも言ったがの、ワシが死んでも後は上手いこと氏直がやってくれるはずじゃ。お主が食いっぱぐれる事は無いから安心せい」

違う。そんなことを言いたい訳じゃない。

緩く首を横に振ると、氏政は苦笑しながらゆっくりと言い含めるようにその言葉を口にした。

「のう風魔、心配せんでもえぇ、ワシは大丈夫じゃ」

返事の代わりに氏政の枯れ枝のような手をぎゅうと握り返す。
そう言いながらももう、分かっているのだ。この老人は自分がもう長くないことを。
普段は強がっているが、一番自らの衰えを実感しているのは何者でもない自分自身のはずで。鉄兜の下に隠れた眼の奥がつんと痛むのを感じて強く歯を噛みしめる。

「氏政様、お薬の用意が出来ておりますが……」
襖の奥から女中の声が掛かる。
ちらりと視線だけそちらに向けた後、風魔に向き直ってもう片方の手を風魔の右腕に添えた。

「暇な時で良い、また来てくれんかの」

力強く頷くと皺だらけの顔をくしゃりと歪ませて右腕に添えた手をぽんぽんと叩きながら氏政は嬉しそうに微笑む。
氏政が奥の女中に入れと声を掛けると同時に、風魔は少しでも自らの体温を分けてやれるように願いながらゆっくりとその手を離した。