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春を待つ

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春が来るなあ、という言葉を聞いて、思わずリディルは眉をひそめた。漏れ出た吐息は空気に白く漂う。
「…どこに春が来てるっていうの」
息はまだ白いと言うのに。外套だってまだ手放せるような気温ではない。なのに、シュレはにこにことリディルを見て笑っていた。言葉の意味が解らない。
いや、わからないということもないかもしれない、確かに季節は春へと向かっている。それに、最も冷え込んだ時期のことを考えれば、気温は少し上がっていた。ほんの少しだけれども。
周りに何かあるのだろうかと思い、リディルはくるりと首を廻らせて周囲を見回したが、それらしいものはやはり無かった。人通り少なく手入れの行き届かない細い獣道は不規則に木やら何がしかの植物が生えているが、それもやや殺風景な茶色い土が目立つ。すぐ傍の木枝だって、それはやはりまもなく芽吹きを迎えるのだろうが──今は何も見て取れはしなかった。
春は、足音を立てながら、まだそこかしらの様々なものに眠っている。
探すことを諦めて、リディルは溜息を吐き自分を眺めるシュレへと目線を戻した。唇から漂った溜息の残滓はやっぱり空中に白く色付いている。
くく、と喉を鳴らす笑い方で頬を緩ませたシュレも、同じように白い息を漏らしていた。
「気づいてないよね」
「だから、どこにって聞いてるんじゃないか…」
「…頭、」
細くて長いシュレの指先が、彼の米神より少し上のあたりを軽く突く。頭、と聞いて、リディルは一瞬シュレの脳内を連想した。頭の中に春が、いっそ単刀直入に言えばいかがわしいことでも考えたんだろうか、思わず眉がつりあがる。
けれど一応彼も分別のある200歳だ。いきなりそんなことを口走るとも思えない。というかそんな性格ではなかった筈だし、とリディルはすぐに思いなおして、ふと自分の頭に手をやった。
そして、それは正解のようだった。
「違うよ、反対側だね」
「……ああ」
言われて反対の手で頭に触れると、すぐにそれは解った。指先にはっきりと違和感を感じ、探りながら潰さないようにそうっとそれをバンダナの布地から外す。
それは、まだ膨らみかけたばかりの梅の蕾と短い小枝だった。そう言えば、道の途中で梅らしい低木があり、鞄を引っ掛けないように身体をずらした記憶がある。
鞄は大丈夫だったが、頭の上の方がひっかかってしまったのだろうか。足元にばかり気を取られて、上の方を見ていなかったのかもしれない。まして蕾が付いていただなんて。
「春が来たとは言ってないけど、もうすぐ春だなあと思ったんだ」
リディルの指先にある固い蕾を、シュレはかがんでまじまじと眺めた。寒さが苦手なシュレにとっては、待ち望んだ暖かい春の兆しでもあるのだろう。
その感慨は、何となく理解できる。理解できるのだが、リディルは細く息を吐くと苦言を呈した。
「…シュレはどうにも言葉が足りない」
「そう?」
「そうだよ!最初から思ったことを説明してくれれば良いんだ、ちょっと混乱したじゃないか」
子供じみた言い方だとは思ったが、思わず口を突いて出たリディルの抗議にシュレは眉を下げて笑っていた。それから彼は、そうだなあと首を傾げて、もう一つ思っていたらしいことを口にしたものだから、リディルは自分の発言をやはり後悔することになる。
「バンダナじゃなくて、髪に刺せばいいなあって思ったよ。花が開けばもっと黒髪に映える簪(かんざし)になる」
…どうやら自分の連想はあながち間違っていなかったらしい。リディルは遠い目で視線を外した。素で言っているのかからかわれているのかわからない。
はやり、この150歳年上の発言に対する理解は遠くて、彼は溜息を吐こうとした。けれど、それを寸でのところで飲み込んで代わりに大きく肩を落とす。
呼気が白く曇る濃度は、外気温で決まるのだったどうか。自分の体温には影響されなかっただろうか?

今吐いた息の白さが濃くなったらどうしよう、と困って、リディルはすたすた歩き出した。
指先に残った蕾はもう開かない。シュレが言うような簪にはならないし、それを刺すこともない。似合うとも思えない。
それでもリディルは蕾を捨てなかった。それはポケットに突っ込まれて、そのうちきっと忘れられて行くのだろう、と思った。
作品名:春を待つ 作家名:ゆきおみ