この島には行く場所がない
映画行こう映画、と夜の九時三十分にもなって誘われた。
こんな時間に映画館やってるんですか。
うん。
何を上映してるんですか。
……知らない。行きたいだけ。
いつも通り何を考えてるかよくわからないギリシャさんは私を宿泊先の民宿から連れ出す。民宿の主人は既に寝ており、鍵すら怪しいこの部屋を空けるのは恐ろしく不安だった。しかし携帯のテトリスにも飽きた。行くしかない。
歩いてどれぐらいですか。
十五分ぐらいかな。
じゃあ三十分ぐらいかかるんだな、と私は見当をつける。
この島の街灯はぽつん、ぽつんと五個に一個がようやっと切れ切れの光を放つだけで歩道は非常に見づらい。まああるだけマシな方だ。
私たちの側をときどき猛スピードで骨董品のような車が走っていく。こんな時間にこんな道をなぜ急ぐ必要があるんだろう、とギリシャさんは言う。しかし彼だって似たような運転をする事を私はよく知っている。
やがて映画館とギリシャさんが説明していた場所についた。
ここ、とギリシャさんが指で指す方向を見ると空き地に五m四方サイズのスクリーンが立っていて、かなり使い込まれたパイプ椅子が五十席分ほど並べられていた。そして客席は子供達でいっぱいだ。猫も何匹かいる。屋台でピタサンドが香ばしい湯気を立てているので、そのおこぼれを貰おうと集まっているらしい。
既に映画は始まっていた。大音量にもかかわらずスピーカーの前にも猫が寝ている。耳が駄目なのかもしれない。ギリシャさんは私の手を引いて後ろの方に座った。人前で彼に手を握られる事にはひどく抵抗があったが、なんだかどうでもいいという気分にすらなる映画館だ。いや、館ですらない。ゲイのカミングアウトにも誰も興味を持たない。私たちは空気だ。
この島に来たのもこんな感じだった。
知らない、聞いたこともない島の名前を突然連絡されて「今ここにいるから遊びに来ないか?」と連絡が入った。それで有給取ってのこのこ渡航した私も私だと思う。
日本からギリシャに行くのと同じぐらい時間をかけてテッサロニキから船を乗り継いで行くと、ギリシャさんはそこの港で待っていた。二日間、港で私を待って野宿していたらしい。
ふ、相変わらずお馬鹿さんですね、と私はオーストリアさんの真似をして肩をすくめて笑った。携帯電話持ってるでしょう、と尋ねるとここでは通じないと言われた。確かに。島には何本か電話が引かれているのでそれを共同で使うそうだ。
この島には、携帯電話のアンテナはおろか何もなかった。人間より頭数の多いヤギがのんびり草を食んでいる。観光のハイシーズンなので、島民の殆どがミコノスやサントリーニに出稼ぎにいってしまうらしい。彼らはそこで一夏働き、春まで寝て暮らすのだという。
島の海岸は砂利と険しい岩場が続き、観光客は全く来ない。店もない。たった一軒の民宿兼レストランの宿泊者はギリシャさんだけだった。
残っている島民はほぼヤギ飼いか百姓で、異常に臆病だ。アジア人の私の姿を見ると怖がって怯えた素振りを見せ、こちらが手を振るとライフルを探しに物置に行く。
「地球の歩き方」にこの素晴らしい島の情報を投稿したものかどうか私は迷った。投稿するとして、よほど粉飾する必要がある。
ひどい島ですね、と正直に感想を口にするとそうだろう、とギリシャさんは嬉しそうに言った。こ、この野郎。
ともかく私はこの島で夏休みを過ごした。
ギリシャさんを拉致して歓楽の島ミコノスに行こうとも思ったが、あそこのスーパーパラダイスビーチでは、毎年泥酔したイギリスさんが全裸で乱痴気騒ぎをしているので嫌だ。前に二人で巻き込まれてそれはそれは酷い目にあった(主にギリシャさんが)。
その時、いい経験になった、とギリシャさんが自分を慰めるように言ったので『前向きな言葉で不幸をごまかすのは負けです』と私は彼の心を折って泣かした。いい思い出になった。
忘れていた。映画の話だ。
映画館おっと映画広場でやっていたのは古い香港映画だった。ユン・ピョウがカンフーの達人役で活躍し、頭でブロックを割りビルから落ちるいつものあれだ。何とか遊戯。
子供たちは映画を見ながらカンフーごっこをして遊んでいる。誰もがユン・ピョウの役をやりたがり、相手に悪のマフィアの役を押しつけようとして大騒ぎだ。そして私は案の定囲まれた。中国人だ、カンフー教えてと口々にせがまれる。やっぱり……。
お前ら、この人はニンジャだからカンフーは不得意なんだ、とギリシャさんがいらんことをいう。
子供達がよけいに興奮し、私はもみくちゃにされた。
ナルトだ!ナルトだ!
そうかナルトか。しかしどっちかというと私の容姿はサスケっぽくないかな?と思う。サスケは両親の仇を取れたのだろうか。最近ジャンプは読んでない。この島でジャンプは買えるのだろうか。まあ無理だ。
ギリシャさんは無心にユン・ピョウを応援していた。
……今ユン・ピョウって何やってるんだろう。最近見ないな。死んだのか。
さあね。
誰もいない映画館での秘めやかな情事をちょっとだけ期待していた私は機嫌が悪い。
……ユンピョウかっこいいなあ。
悪かったですねあんな顔と体じゃなくて。
ちょっと険悪なムードが漂い始めた頃に、ビール如何っすかーと売り子が声をかける。映画上映中の売り子は流石に前代未聞。
二本。連れにも。
あいよ。
貰ったビールはすでになんとなく温かった。
私がぶつぶつ言いながら缶を口に運んでるとギリシャさんは俺、日本の体は別ジャンルだと思うと言い訳がましく言った。
ジャンル……。何だろう。面妖系とかショタとかあれか。
……強いて言えばトルコと反対だ。つまり世界一美しい。そういう感じだな。
はいはいはいはい。
私はどっと疲れる。もういい、しゃべらないでほしい。ああっ。もう。この人は。
ちょうどスクリーンの中でもユン・ピョウは悪を倒しヒロインにキスして香港を去っていった。またすぐ戻ってきて誰かと戦うし別のヒロインともキスするだろう。とにかく今夜は去っていった。
子供達は三々五々帰りだし、私たちはまだビールを注文する。映写技師がフィルムを片付け始め、パイプ椅子も次々と折りたたまれていく。
お開きの時間だ。子供達が捨てたピタサンドの食べかすを、猫が奪い合う。
早く帰れホモ、と顔に書いてある係員に追い立てられて私たちは席をやっと立った。
午前一時近くなって私たちは宿に帰ってきた。私の疲れた体にはビールが回り、すっかり千鳥足だ。そのままベッドに二人で倒れ込む。
どちらからともなく、腕を伸ばす。早く彼の香ばしい汗を舐めたかった。
この島には行く場所があまりない。私とギリシャさんの会話はあまりに悲惨だ。しかし私は満足している。かなり。
end.
作品名:この島には行く場所がない 作家名:火多塔子