紫陽花
今日の倉庫の掃除は伊助と三郎次だったか。
いつもならば委員会の活動中、火薬庫の扉は開け放したままにしておく。火薬庫の中では火が使えず、太陽の光を当てにするしかないからだ。
しかし火薬庫に雨が吹き込むのはあまり良くない。
今日は早めに切り上げるように言うか。掃除ならば晴れている日にすればいい。
そう思い長屋を出て火薬庫に向かった。
そういえば、授業の後、八左ヱ門がふらりと出かけて行くのを見た。朝食を一緒に取っている時に鶏の卵が孵化しそうだと言っていたので、鳥小屋にでもいるかも知れない。
火薬庫へ行く道を少しだけ遠回りにして、鳥小屋を覗いてみた。だが、八左ヱ門の姿はなく、どうやら無事孵化したらしい雛が親鳥の足の間からもぞもぞと尻を覗かせていた。
どこに行ったんだろう。雨だから菜園ではないだろうし。厩かな…牛舎かも知れない。それとも裏山か。
八左ヱ門はいつも忙しなく動き回っている。学園の敷地は広く、その居場所を探すのは容易なことではない。
溜息を吐いて鳥小屋を離れる。火薬庫へ行くと伊助と三郎次に今日はもう終わりにして良いよと告げ、渡してあった鍵を預かり戸締りをした。
「久々知先輩、どうかしたんですか」
鍵を掛けていると伊助が不意にそんなことを訊いてきた。
「うん?」
何故そんなことを言うのだろうと顔を見れば、伊助は心配そうな顔をして「なんだか、つまらなそうだから」と遠慮がちに言った。
「……そう、かな」
兵助は返答に困ってしまい、それを誤魔化すように笑った。
八左ヱ門に会えなかった。ただそれだけで降下しかけていた気分が顔に出てしまっていたらしい。
情けないな…。
「雨が降ってるからだよ」
伊助の頭をぽんぽんと撫でて、帰ろうかと促す。三郎次は途中で体育委員会の時友四郎兵衛に呼び止められて、行ってしまった。
「僕も雨は嫌いです。だって、外で遊べないでしょう?雨が好きな人なんか、いるのかな」
曇天を見つめ伊助が恨めしそうに言った。一年生らしいその言葉に、思わず笑ったその時、「雨も良いものだぞ」と背後から声がした。聞き慣れたその声に顔を巡らせると八左ヱ門がいた。
どこから手折ってきたのだろうか。手に一枝の紫陽花を持っている。鮮やかな青色をした紫陽花だった。
「八左ヱ門…」
「土砂降りは困るが、霧雨は風情があって良いじゃないか」
笑いながら言って伊助の隣に並んだ八左ヱ門の髪から、ふわりと雨の匂いがする。
「兵助、見ろ」
八左ヱ門が言って、紫陽花を差し出してきた。
「青だよな」
確認をするように言われ頷くと、八左ヱ門は嬉しそうに笑って、その紫陽花を伊助の手に握らせた。意味が分からないという表情で、伊助が紫陽花を受け取る。伊助の小さな手には紫陽花は大きくて、まるで花束のように見えた。
「梅雨の雨は大地を潤すだろう。木々の緑にも、この紫陽花にも、雨は必要なものなんだよ。それにほら、雨の日は色んな匂いがする。桜の葉も香っているし、土の良い匂いもするだろう」
そう話しながら八左ヱ門は手を伸ばして桜の葉を一枚千切った。青葉の心地良い匂いに、伊助が顔を近づけて「本当だ」と笑った。
「ところで、どうして竹谷先輩は紫陽花を持っていたんですか?」
「三郎と賭けをしたのさ。池のほとりの紫陽花は毎年色を変えるんだ。今年は何色か、団子を賭けてるんだ」
「青に賭けたのか」
「そう。だから俺の勝ち」
その紫陽花はやるよ、と八左ヱ門は伊助の頭を撫でた。
「紫陽花は毒があるから、食べるなよ」
「紫陽花なんか、食べませんよ」
「じゃあ、しんべヱに言っておいてくれ」
一年生の長屋で伊助と別れ、五年生の長屋へ向かう。
二人きりになり隣を見れば、八左ヱ門の髪も頬も霧雨に濡れ、細かな水の玉が空から落ちる微かな光に反射し、きらきらと柔らかい光を放っていた。
「…そういえば、卵孵ってた」
横顔を見つめて告げると、八左ヱ門が兵助を振り返って嬉しそうに笑った。
「そうなんだ。今日は嬉しいことがふたつもあった」
そう言って空を仰ぐ。太陽など見えるはずがないのに、八左ヱ門は眩しそうに目を細めた。
「俺は雨の日も好きだな。晴れの日も、風の日も好きだ」
八左ヱ門らしい言葉に、「ああ」と頷いた。八左ヱ門は振り向いて「兵助」と弾んだ声を上げた。
「雨が止んだら団子を食いに行こう」
ああ、例え空に太陽が出ていなくたって、八左ヱ門がいるだけで世界がこんなにも明るく見えるんだ。
そう気付くと、なんだか嬉しくなって兵助は小さく笑った。